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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (11)

  • なぜ無意識という概念はいまだにラディカルであるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ヒトの環境世界は脳機能から生じた写像でしかないわけです。なぜなら、認識可能な環境世界は写像でしかなく、その写像世界とのインタラクションとして行為や知覚も脳機能から生じた写像なのですからとうぜんより強い構造化=脳化へと向かうわけです。 われわれは構造化が運命づけられた写像世界に閉じ込められているわけです。これを打ち破るには脳を壊すしかないわけです。壊れた脳の写像世界Bのヒトは、正常なAの世界では適応できなくなります。 知覚情報が脳を通過することで、人の営みが生じるのですから、産出されるものは脳癖=人臭さを潜在させています。人工物と自然物の違いは一瞬でわかりますよね?つまり、写像世界意味論では、文化は脳の糞です。 ポイントは情動です。情動はヒト脳のコントロールをすり抜けるからです。つまり、黒幕です。ヒト脳がつかまえる情報=意識なわけですが、そのつかまる手前で情報が写像世界に漏れてしまうわけです

    なぜ無意識という概念はいまだにラディカルであるのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ貨幣交換は「政治ゲーム」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とラカンの「象徴界」 ヴィトゲンシュタインがいう「言語ゲーム」(規則に従う)とは、実践的行為(経験命題)の総体である。規則(論理命題)は、「規則に従う」という実践の反復の中で、実際に使える(プラグマティック)という判断によって、事後的に「硬化」していく。だから数学も、そして「痛み」でさえ、言語ゲームとして獲得していく。 ラカンにおいて、「去勢」とは、母親との想像的な関係から、父という第三者の介入によって、社会の一員になること、「象徴界への参入」を意味する。そして第三者の介入とは、言語の獲得を意味する。 ラカンは「無意識はランガージュ(ラング+パロール)のように構造化されている」と言ったが、それは言語規則(ラング)を学ぶことではなく、言語ゲームとは、日常会話(パロール)という実際の使い方(言語ゲーム)を学ぶことを意味するからだ。 父という第三者は、実際の父

    なぜ貨幣交換は「政治ゲーム」なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • まなざしの快楽 - なぜ「フラット化」は強者の欲望を隠蔽するのか 「フラット化」と欲望 その2

    言語ゲームの強さ、象徴界の弱さ 言語ゲームにおける「規則に従う」とは自転車の乗り方を覚えるようなものである。ボクたちは自転車をどのように乗るか説明することはできなくとも、自転車に乗ることができる。このようにボクたちは日常会話を「規則に従う」ことで行っている。 言語ゲーム(規則に従う)は、一面で、ラカンが考えるように、変化するあやふやなものであることは確かであるが、ヴィトゲンシュタインが数学やパズルなどを例に上げながら、言語ゲーム(規則に従う)を基底として考えるとき、反復によって支えられた「確実性」の強さを感じる。 ラカンの「象徴界」とヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の対比として考えると、これらは質的に明確な境界があるわけではないが、反復の強度の差というイメージで対比することができるだろう。さらに「規則に従う」ことの反復によって「硬化」された「規則」は、外部記憶化されることで、科学的(

    まなざしの快楽 - なぜ「フラット化」は強者の欲望を隠蔽するのか 「フラット化」と欲望 その2
  • まなざしの快楽 - なぜラカンはヴィトゲンシュタインで満足しなかったのか 「フラット化」と欲望 その1

    ヴィトゲンシュタインの「他者」 柄谷は「探求Ⅰ」(ASIN:4061590154)の中で、後期ヴィトゲンシュタインの「教える−学ぶ」関係と対比して、多くの思想は「独我論」であるといった。「教える−学ぶ」関係とは外国人、子供などであり、共同体(言語ゲーム)の外部の存在である彼らには、通常当たり前とされる内部の規則は通用せず、「独我論」を破る「命がけの飛躍」としての「他者」が存在すると言った。 私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称的である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提することである。 哲学は「内省」からはじまる。ということは、自己対話か

    まなざしの快楽 - なぜラカンはヴィトゲンシュタインで満足しなかったのか 「フラット化」と欲望 その1
  • なぜ進化論はポスト構造主義的なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさん ポストモダニズムに歴史的視点があるかどうかか。無いね。だから、進化論・ヘーゲル弁証法を否定し、通時性から共時性の肯定になった。つまり、色んな分野でも言われているように、歴史の終焉だ。ここが、ポスト構造主義の共通点だ。 歴史を肯定すると、自己=考える位置が絶対化する。ハイデガーはまだ歴史を強調してるよね。でもレヴィ・ストロースを見れば分かるように、構造は恣意的差異体系であり、ここには、成長や進化ではなく、差異の戯れしかないのだよ。 それと、進化論とヘーゲルの弁証法は同じ考えだ。どちらも絶対点に到達すると考えている。ヘーゲルではなく、一般的に言う歴史とはについては、前進・進化・絶対知に向かうという考えは無いかもしれないが、自分の立つ位置を求める意味では、ポスト構造主義ではないよ。 第三の波平 構造主義の差異と、ポスト構造主義の差異は別物です。ポスト構造主義は創発の思想だから、

    なぜ進化論はポスト構造主義的なのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「歴史」は科学的に記述されないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    科学的帰納法という寛容 科学は帰納法であると言われる。帰納法とは「観察や実験を繰り返し行い、観察事実(データ)を蓄積し、たくさんの観察事実(データ)に基づいて、理論を構築する」ということ。ここで問題は、繰り返しということ。たとえば物体Aと物体Bの衝突実験のように力学の基礎実験は繰り返し(検証)が容易だろう。誰がいつやっても再現されることで、「確からしさ」が積み上げられていく。 でもその後、それにあわない結果が出る可能性は排除できない。たとえばニュートン力学は多くの人に繰り返されて、「確からしさ」が確認され、教科書にものっている。しかしそれがアインシュタインによって崩された。 科学的帰納法の有効性はここにある。「別に絶対の真実でなくても、みんなが「確からしい」と認めればよいじゃん!」という寛容さこそが、社会に活用され、成功している。 「反証可能性」という不寛容 では心理学どうだろうか。これは

    なぜ「歴史」は科学的に記述されないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜお金にはリアリティがあるのだろうか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    "How much?"ほど的確なコミュニケーションはあるだろうか たとえばあるカバンがあり、そこには製造面、デザイナーの思い入れ、カバンマニアによる解説などなど様々な価値観があっても、「このカバンの価格は1万円」とお金により価値化されることで、様々な価値観への理解とは関係なく、誰もが「1万円」という価値を理解する。誰にでも、どこでもというこのわかりやすさこそが、お金の力である。 ある対象の価値は、質的なものであり、人それぞれ、コンテクスト(状況)によって曖昧である。それに比べて、"How much?"ほどセカイの中で早くて、的確なコミュニケーションはあるだろうか。 「お金として価値化されないものは存在しない。」 言語論では、「言語化されないものは存在しない」といわれる。言語化されなければ、他者にコミュニケーションすることができず、社会に流通されない。意味があるものは何らかの名付けが行われて

    なぜお金にはリアリティがあるのだろうか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ新書ブームなのか 認知限界社会 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    マスメディアの中で継続的に続く「大きな物語」 最近、コント番組というものがなくなりましたね。バラエティー番組というハプニングを売り物にする、ライブ感を大切にする番組花盛りです。それは、「あいのり」のようなライブバラエティーに繋がっています。 多くの視聴者は軽い感じで、テレビを「ながら見」しています。コントでは、内容を「読み込む」ために、その場面の状況(コンテクスト)を読み込む必要があります。同じタレントがでていたも、このコントでは彼はどのような役を演じて、どのような状況(コンテクスト)におかれているのか。 バラエティーではそのような読み込みは必要とされません。出川はいつも出川という役です。バラエティーは同じタレントが入れ替わり立ち替わりでますが、出川ならいじめられ役のように、お嬢様役、キレ役などなど、タレントはすでにある役を担わされたキャラクターです。それは、いわば、マスメディアの中で継続

    なぜ新書ブームなのか 認知限界社会 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜコミュニティは必要なのか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    仕事おもしろさと企業コミュニティ やはり仕事おもしろいですね。仕事おもしろさは強制力にあるのではないでしょうか。決して分かり合えない他者とのコミュニケーションにおいて、仕事という目的において働く強制力であり、分かりあったフリをしなければ、プラグマティックな成果としての仕事は成立しません。大きな一つの目的を共有するように振るまうことでコミュニティが形成され、そこに帰属意識、責任感、充実感が生まれます。大変だからやりがいがある。 日において、このような幸福な関係は、年功序列制度によって保障されていたといえるでしょう。現代は、人件費の削減から、リストラなど将来の保障の消失、あるいはその場限りの労働力のフリーターなどによって、もはやコミュニティとしての力は薄れつつあります。 大災害のときなど、人は他者の強い助けを必要とします。このような外部自然からの「純粋な略奪」としての大きな負債の発生は

    なぜコミュニティは必要なのか その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ダリというフロイトとマルクスの交錯点 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「私はダリでしょう?」 ダリ展(http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/315.html)にいってきました。シュルレアリスムはフロイトから大きく影響を受けたと言われるように無意識的です。ダリの絵は一見、抽象的な絵なのですが、感性的というよりも思考的です。隠し絵や暗示絵など考え抜かれてつくられています。ラカン風にいえば、シュルレアリスムは言語のように構造化された芸術表現と言えるかもしれません。 さらにダリの絵は、心身二元論的であるのかもしれません。その特徴は、身体は物体化されて、ものの中にはめ込まれる感じで描かれることが特徴的です。すなわちその全体からの映し出される心に対して、器質身体は疎外されています。 たとえばダリの「家具栄養物の離乳」(http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/315_large05.

    ダリというフロイトとマルクスの交錯点 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • マルクスの「労働価値」はなぜ消えたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「貨幣は貨幣であることで貨幣である」 岩井克人の「貨幣論」(ASIN:4480084118)では、マルクスの「資論」(ASIN:4003412516)で展開された価値形態論が脱構築されている。マルクスの示した価値形態の図式を循環論Zへと展開することで、貨幣という形態には、マルクスがこだわった「価値に表されている労働」による根拠づけのような外部要因が入り込む必要がないことを示す。「貨幣は貨幣であることで貨幣である」とうことだ。 ではこれによって労働価値説はもはや葬り去られるのだろうか。ある意味で正しく、ある意味で正しくない。岩井はこのような循環論の他の例として「言語」を上げている。これは柄谷が、マルクスの価値形態論をソシュールの言語論で説明することと同じ意味であり、貨幣が構造主義的構造を持つことをしめす。 だから東は岩井の貨幣論をデリダの構造主義批判である「否定神学」と言った。すなわちマル

    マルクスの「労働価値」はなぜ消えたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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