タグ

religiousとphilosophicalに関するmicrotestoのブックマーク (12)

  • 宗教を哲学するということの(不)可能性

    【注意書き】 以下の文章は、『聖学院大学総合研究所Newsletter』18-3(2009. 1), pp. 4-5に掲載された研究ノートです。新任の自己紹介的な文章なので、その部分のみ、初出時からごく一部表現を改めている箇所があります。また、初出時にはなかった節の区切りとタイトルを入れています。 宗教を哲学することの終わり? 筆者はこれまで、現代フランス・イタリアの哲学、特にその現象学・解釈学に属する哲学者たちの思想を専門に研究してきた。近年その両国では、多くの哲学者が「神の死以後」という視点のもとで「宗教(的なもの)」をラディカルに主題とするようになった(そうした動向は時に「神学的転回」と呼ばれ、批判の対象にもなってきたが)。このような経緯から、筆者もまた、そうした宗教論を中心に研究を進めてきた。 ところで、近年この「宗教を哲学する」という試みは、大きく変化を迫られている(1)。従来

  • 『ヒストリエ』 岩明均

    フェロモンボディのボディソープを買いました。  スリミング・セルライト対策のソルト系のボディソープとしてクチコミでも割と評価... 「美白フリークの愛用する6つの日焼け止め」で触れたイプサのプロテクター・デイシェルター・ブライトビジョンをまた買いました。 ...

  • uumin3の日記 - ポリティカル・コレクトネスが考慮されない

    【写真】「加害者も犠牲者も極楽往生」 韓国、中央日報の日語版の(写真)記事です。 米バージニア工科大銃乱射事件の犠牲者のための33の灯りがソウル曹渓寺(チョゲサ)の大雄殿前にかけられた。灯りは死者の極楽往生を祈るもの。犠牲者らの名前と犯人チョ・スンヒ容疑者の名前も見える。 33個の石 関連記事(中央日報) 「私たちが先にスンヒに手を差し伸べていれば」 −−チョ・スンヒに手紙を書いた理由は。 2日前にもここへ来たが、特にスンヒの追慕石だけさびしそうだった。「スンヒも加害者と同時に犠牲者」という気がした。彼にも私たちのような魂がある。母にも相談したが同意してくれた。それで昨日、手紙を書いてここに置いた。今日来てみたら手紙や花がたくさん置かれていてうれしかった」 −−犯人の銃で死んだ人々と犯人をまったく同じように追慕することはいきすぎだという批判はないか。 「泥沼にはまって『助けてくれ』と叫ん

    uumin3の日記 - ポリティカル・コレクトネスが考慮されない
  • 汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG

  • Turning in the Widening Gyre - 「現世肯定主義」特有の生きにくさ

    私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 芥川賞作家の新井満が作曲し、秋川雅史が歌う「千の風になって」。良い曲ですね。 私はこの曲は最近のJ-Popの中では最良のものに属すると考えているし、新井満は良い仕事しているなあと思うけれども、新井満が訳した歌詞に関してはおそらく普遍的なものではないな、という気がしている。 この曲の歌詞が、現代の欧米や日で受容されやすいのは、現世を肯定しようとする考えが現代においては主流だからであろう。この考えを便宜的に私は「現世肯定主義」と呼びたい。 (私はキリスト教以外の宗教には詳しくないので、とりあえずキリスト教の話になるが)例えば、ローマ帝国からの迫害に苦しむ原始キリスト教徒が『千の風になって』のようなことを考え得たであろうか。江戸時代、長崎で隠れながら信仰を

    Turning in the Widening Gyre - 「現世肯定主義」特有の生きにくさ
  • 2007-03-28

    ベネディクト・アンダーソン、アントニー・D・スミス、アーネスト・ゲルナー、エリック・ホブズボーム……とナショナリズム論の系譜を遡っていくと、哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」とエルネスト・ルナンの「ネーションとは何か」に行き着く。 前者はナポレオンの脅威がヨーロッパ中を席巻していたときに、仏占領下のベルリンで行われた講演であり、後者はソルボンヌ大学での講演である。ヨハン・ゴッドリーブ・フィヒテがドイツ観念論の哲学者であることはよく知られている。が、私は「ネーションとは何か」で有名なルナンという学者が『イエス伝』のルナンと同一人物であることに最初は気がつかなかった。 ルナンの職は政治学者でなく、現代聖書学に大きな影響を与えた思想家である。彼の主著は『イエス伝』であり、ここでイエスの存在を神学的ではなく、学術的・歴史的に描いた。『イエス伝』はルドルフ・ブルトマンが登場する半世紀以上前の、1

    2007-03-28
  • 汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG

    au one netのブログサービス 『LOVELOG』は2014年6月30日をもちまして提供を終了致しました。 永らくのご利用、誠にありがとうございました。 引き続きau one netをご愛顧いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※お手数ではございますが、新ブログにて閲覧の皆さま向けにブログURL変更等をご周知いただけますよう、お願い申し上げます。

  • 汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG

  • 古代ローマの宗教を考える上で参考になるキケロの著作 (3月2日) | 小堀馨子のブログ

    一定期間更新がないため広告を表示しています

  • はてなブログ

    なぜ日報を書くのか ※この文章は「日報を書くの良いですよ!」という事を進める文章ではないです。 あくまでも自分がScrapboxで外部向けの日記を書いたり、社内のドキュメントツールで日報を書いていく内に思いついた考えを一旦まとめたくて書いています。 元々は社内向けで書いていたので…

    はてなブログ
  • こわれもの - ☆★☆ 観念の冒険 ☆★☆

  • 穏健な宗教 - good2nd

    ちょっと前の話題ですが、ニセ科学がらみで「穏健な宗教と科学は共存できる」というような言い方がされてました。でその、「科学と共存できる穏健な宗教」ってどんなんだろう、というのがどうもよくわからない。「穏健」というのが、単に狂信的でないとか暴力的でないとか反社会的でない、というのであれば、まあ日にある大抵の宗教は穏健ということになるんでしょうが、「科学と共存」というのがどうも。科学者の人とか信者の人とかは結構はっきりした考えがあったりするんでしょうかね。よくわからないので、科学も宗教もろくに知らないなりに考えてみました。 まず、自分にとっての宗教っていうと、法事には一応出席する、仏壇の前や墓参りの時はなんとなく心のなかで死者に語りかける、各種お祭りはわりと好き、神社仏閣に行けばお参りする、くらいのものでしょうか。僕は基的に科学を信用していて、神とか霊魂とかはある種のファンタジーだと思ってま

    穏健な宗教 - good2nd
    microtesto
    microtesto 2007/01/07
    科学も一つの宗教なので特別不思議でもない感じ。科学的世界観の限界までは科学を信仰し、そこから先は一般的な宗教を信仰しているだけかと。それは真摯な姿ではない事は間違いないけど、そういうものじゃないかと。
  • 1