それはそれとして、批判的なエントリーやコメントの執筆をエネルギッシュに継続したとして、それを読んで同調する人間もまた匿名存在であるとき、書き手と読み手は、もの悲しくなっていないのかな、というのが気になる。空虚にむかって、言葉をつむいでいる心象とはどういうものだろうか。 評の対象となっている新書もそうだが、石井政之には転倒があるように思う。自由に発言できる場を与えられたときに無力化されているのであって、そこで日本社会の現実を変え得ない理由を分析する、といったモチーフがよく理解できない。最初から水しか飲めないガラスのコップに、お茶が飲めないのはなぜかと問いかけている。私の念頭にはマルクスの『ユダヤ人問題によせて』があるのだが、最初に何を語っても自由だよといって与えられ選ばされた形式は決定的である。それを内部から破壊するためには無限の労力がいる。宗教の力は弾圧された宗教にしかないし、言説の力は自
未知なる他者、世界に対する「正しい読み」は存在するだろうか。存在するならば、それはどのようなものか。デリダ(仏、1930―2004。代表作に『声と現象』、『エクリチュールと差異』ほか多数)の主要概念「脱―構築」に依拠…
物象の世界はもう何十年と見てきた、いつもと同じ年末である。すべては動いているのかもしれないが、動きはない。見なければ存在しない、という観念論の絶対性はつねに有効だが、見ても何も存在しない。この言い方は正しくない。見なければ存在しないという眠りがあるように、たとえ見ても何も存在しない、そういう目覚めがきっとある。 でもそれは目覚めではなく、もうひとつの眠りかもしれない。一方、心象世界の側にはクリスマスも正月もないが、そこにはもっと決定的な持続があり断絶がある。動いていないように見えるが、絶えず動きつづけている。 やはり書いているとほっとする。自分の中にある、訳の分からない怒りの塊のようなものに、ゆっくりゆっくりと形を与えていく。それは途轍もなくしんどいことでもあるのですが、けれども同時に、抱えたままでは普通の日常生活を送るのさえ困難な、ぼく自身を破壊しかねない衝動を、論理的な文章に結晶化させ
LSDを買うかどうかは迷っていたのだけど、http://d.hatena.ne.jp/massunnk/20070825/p3をきっかけに購入。 滅茶苦茶面白い。 これは、結論が出なかったという点では「失敗作」なのかもしれないが、こんなに面白いとなると「失敗作」と呼ぶのはもったいない。 この作品から『動物化するポストモダン』が生まれてくることになる。 この論文は、面白いというか示唆に富んでいるというか、動ポモではわからなかった哲学的ないし思想史的背景がよくわかる。 東ってやっぱり滅茶苦茶本読んでいるんだなー、ということもよくわかる(^^; 哲学畑に閉じこもっていてもよくないから出ていこう、とした、東の考えはよくわかるんだけど*1、もうちょっと哲学畑でいじくりまわしてみたい自分としては、この論文はスタート地点になりうる気がした。 『不過視なものの世界』で言われた通り、「見えるもの(イメージ)
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