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メディア論に関するmn_krのブックマーク (71)

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1240.html

  • 研究計画書 - sugi2000iii’s diary

    大学院出願のときに提出した研究計画書をさらします。 ご意見があれば、ぜひ。 研究計画書 市民のメディア表現機会を拡大するアーティスト参画ワークショップの設計と実践 1.背景──インフラの整備と市民のメディア表現 近年、一般市民による映像や音声を使ったメディア表現の創作および発表ができる環境が整ってきた。この環境の進展は、カメラ・編集機材といったハードウェア環境に加え、広帯域なネットワーク環境の整備と、ブログやポッドキャスティングといったシステムや使い勝手の良いコンテンツ共有サイトの登場によるところが大きい。 インフラの整備は進んだものの、全ての人がこれらの環境を活用できてはいない。特に新しいメディア表現で作り手・送り手になるには、PC・Web 技術等に習熟する必要がある。受け手となる人々も、環境を熟知した者が多く集団が固定している。さらに年齢層によって主とする情報入手メディアが異なり、人々

    研究計画書 - sugi2000iii’s diary
  • 鈴村智久の研究室 - FC2 BLOG パスワード認証

    mn_kr
    mn_kr 2008/07/12
    ドブレ(debray)
  • スコット・ラッシュ「再帰性とその分身」/3 - suneoHairWax

    【3】再帰性――認知的か? 美的か?(Reflexivity: cognitive or aesthetic?) 【3-0】〔01〕‐〔02〕 247-248 (第一段落は誤訳が多いので訳しなおす) しかし、I&C構造を通して流れるのは知識だけではない。つまり、近代における再帰性の構造的条件としては、概念的象徴だけが機能するのではなく、間隙を〔ヒトとヒト、モノとモノとのあいだを〕介した(in space)、全体的な他の 記号のエコノミー (an entire other economy of signs in space)も機能するのだ。この、他の記号論的semioticエコノミーは、概念的なものではなくミメーシス的なmimetic象徴のエコノミーである。それは、後期近代における、認知的ではなく美的な再帰性のための可能性を開くエコノミーである。 概念的象徴、つまりI&C構造を通る情報の流れ

    スコット・ラッシュ「再帰性とその分身」/3 - suneoHairWax
  • メディアが「笑いの方法」を変えること:荻上式!電網テレビ批評 | みんなのテレビ:So-net blog

  • 広告β:広告が環境に溶けていく日

    しばらく前から自分はゲームについてのを読みあさっている。それは私がゲーマーであるからではなく、何となくこれからの広告の道を示唆する何かがゲームというものに潜んでいると考えていたからだ。もちろんそれはテレビゲームの中に企業名を仕込むとか、そういうことではない(いわゆるゲーム内広告)。もっと大きなところで、広告のメッセージ構造の転換があると考えている。 とても示唆的な言葉が斉藤由多加氏の著書「ハンバーガーを待つ3分間の値段」に書かれていたので、長いけれども抜粋する。 ゲームの企画者の意志やメッセージはどこに表現されているのでしょうか。それは、実は、「枠組み」そのものに込められているのです。(中略)『シムシティー』というゲームはシミュレーションのお手というべき名作です。(中略)悪化した住環境を改善するには・・・?その答えは「公園を作ってやる」ことです。(中略)このゲームのプレイヤー達はや

    mn_kr
    mn_kr 2008/05/06
    “社会学文脈で言われる「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への変化”|コメント欄より、アフォーダンス理論=「環境と知覚(認知)の連動性」に近接した事態ではないかとの指摘
  • thought.ne.jp:メディオロジー入門;はじめに

    1988年は「メディオロジー」の実質的な生誕の年である。この年、ダニエル・ブーニュー教授は、自身が教鞭を執るグルノーブル・スタンダール大学に、レジス・ドゥブレを招聘してメディオロジーのセミナーを組織する。1988-89年度のこのセミナーは、同大学のコミュニケーション科学専攻内で開催された。メディオロジーが最初に大学に出会った土地、そこは、ベルナール・ミエージュをリーダーとする、マルクス主義/フランクフルト学派の影響下にある実証主義的な情報・コミュニケーション科学の一派の中心地であった。このことは、逸話の範囲を越えないにしても決して無意味な光景ではないはずである。 翌年度、ブーニューとドゥブレは、パリの国際哲学院でメディオロジーの共同セミナーを企画する。メディオロジーがより広い形で公になるきっかけとなった。コミュニケーション科学から哲学へ?そこにはどのような関係があるのだろうか。これは、す

  • ASCII.jp:テレビの未来|石井裕の“デジタルの感触”

    そのことを特別に誇りに思ったり、あるいは恥ずかしいと思ったことは今までなかったが、普通の人から見るととても奇異に映るらしい。テレビを持たない理由は、単純にその必要性を強く感じないからである。 刻々と変化する世界の情報は、インターネットから愛機PowerBook G4を通して入って来る。コンピューターは、ネット上の複数の情報ソースへの同時並行アクセスを、スムーズにサポートしてくれる。 サーチエンジンとマルチウィンドウ、ウェブブラウザーのタブ機能(FirefoxやSafariで「command」+「T」キーを押すだけ!)やブックマークを駆使することで、情報収集と分析、加工編集のスピードにおいて、コンピューターはテレビを大きく引き離す。積極的に情報を追い求めるユーザーにとっては、コンピューターが可能にする情報への「ランダムアクセス」と「サーチエンジン」が強い味方になる。 一方、一度にひとつのチャ

    ASCII.jp:テレビの未来|石井裕の“デジタルの感触”
  • <失われた十年>の祭り(NULPTYX:石田英敬研究室)

    <失われた十年>の祭り 天皇在位十年「国民祭典」を観て 初出:『世界』、2000年1月号 アクセスしてみるとうつるCOMPUTER SCREEN のなか チカチカしてる文字 手を当ててみるとI feel so warm... 宇多田ヒカル 皇居前広場 1999.11.12 その夜のテレビ・ニュースでは、歓呼して打ちふられる日の丸の小旗や揺れる提灯が映し出されたし、翌朝の新聞には「祝いの人波3万人」などという見出しが躍っていた。しかし、ときおり小雨の降る薄ら寒い秋の夕暮れ時、静かに皇居前広場に集まって来た、群衆と呼ぶにはやや心細いほどの数の人々が経験したのは、そのような祝祭の華やかさとはほど遠い、こわばったとまどいの時間、あるちぐはぐな感じのつきまとう夕べだった。11月12日に行われた「天皇陛下御即位十年奉祝委員会」などの主催による「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の様

  • 2006-11-14

    授業用に書いた短文 テレビは批判される。数が多いため網羅的に分析することは不可能に近いが、テレビを扱った論説文等を集積してみれば、肯定しているものはむしろ少数であろう。いわゆる「大衆文化論」の中ではテレビを肯定的に捉える場合もあるが、知識人にせよ、政治家にせよ、経済人にせよ、自らの立場からテレビを批判する。ごく一般の人でも、テレビに関して意見を求められれば、かなり批判的な言辞が出てくるのではなかろうか。 これは今に始まったことではない。テレビ放送が開始された1950年代や60年代から既に、人口に膾炙した大宅壮一の「一億総白痴化論」など、既に批判的な言辞は多かった。もちろん、テレビに限らず大衆文化や「文化産業」全体についてさえ、テレビの出現以前から、アドルノなどによって厳しい批判を受けている。 とはいえ、最近とみにテレビ批判が強まっているようにも実感する。卑近な例を挙げるなら、いわゆる「小泉

    2006-11-14
  • 『モバゲータウンがすごい理由』を読むべき理由?PCとモバイルの断絶に愕然とした - アルカンタラの熱い夏

    『モバゲータウンがすごい理由』を読むべき理由〜PCとモバイルの断絶に愕然とした カテゴリ: 買った・読んだ 『モバゲータウンがすごい理由 〜オジサンにはわからない、ケータイ・コンテンツ成功の秘けつ〜』というを読みました。とてもおもしろかった。 当は同僚のみなさんに配り歩きたいくらいなんですが、ちょっと人数が多すぎるので、代わりにどこがおもしろかったか書きます。今日はあまり時間がないのでちょっと乱暴な感じになってしまいますがご容赦ください。 モバゲータウン(以下、モバゲー)がすごい理由は何か? と聞かれたとき、PCサイトに詳しい人なら、ちょっとさわってみただけで、「モバゲーがどれほどよく考えられていて、どれほどよくできているか」についてはすぐわかるはずなので、そういうことについてはすらすらと答えられると思います。 では、以下の事柄を重ねて質問されたとしたらどうでしょうか。 ・ケータイ

    『モバゲータウンがすごい理由』を読むべき理由?PCとモバイルの断絶に愕然とした - アルカンタラの熱い夏