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ブックマーク / www.kojinkaratani.com (7)

  • 浅田彰【村上隆と「原宿フラット」】

    このあいだのクリスマスのこと。いつものとおり、サンタ・モニカのピーター&アイリーン・ノートン夫から大きなプレゼントが届く。中の写真を見ると、うーん、ダイアナもマイケルも大きくなって!……とか言って、ぜんぜん知らないぞ、こんな連中! そう思ったら、実のところ、この一家は毎年アーティストにプレゼントの制作を委嘱していて、今年は村上隆がそれを請け負ったというのが、裏の事情だった。微笑む花をいっぱいに散らした「コスモス・ボール」の上に、目玉だらけの「オーヴァル」くんが座っているという、30cmちかいオブジェ。ありがとう、ノートンさんに村上くん! 実は、昨年11月30日に村上隆の「スーパーフラット」というコンセプトをめぐる「原宿フラット」というイヴェントがあって、私も岡崎乾二郎や椹木野衣と共に座談会に出たのだった。「スーパーフラット」というのは、まさしく「超フラット」だから、「フラットを超える」と

  • 浅田彰【アドルノ/デリダ】

    同時多発テロから間もない昨年9月22日、フランクフルトでジャック・デリダにアドルノ賞が授与され、このたびその時の記念講演が公刊された*[1]。言うまでもなくアドルノはフランクフルト学派第一世代の代表者であり、その名を冠した賞は第二世代のユルゲン・ハバーマスらにも与えられているが、受賞者は必ずしもドイツ人ばかりではなく、ピエール・ブーレーズ(音楽批評家としてのアドルノが高く評価していた)やジャン=リュック・ゴダール*[2]らも含まれている。そのなかでも、ロゴスの外部を否定しつつロゴス中心主義を批判するデリダの脱構築が、理性によって理性を批判するアドルノの批判理論に通ずる面をもつことを考えれば、デリダこそまさしくこの賞にふさわしいと言うべきだろう。 現に、記念講演でデリダはアドルノへの「負債」を明白に認める。その上で、その錯綜した関係の歴史を説き明かすには少なくとも七章からなる大著が必要だろう

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    mn_kr 2008/03/24
    独仏哲学者の関係について。
  • 斎藤環【人格障害者と多重人格者の戦いでは、神経症者に支援せよ】

    昨日8日未明、アフガニスタンへの爆撃がついに開始された。これは間違いなく、いつ果てるとも知れない泥沼の始まりでもある。しかし柄谷行人氏も指摘するとおり(批評空間 Web Critique 9.16「これは予言ではない」)、予言などするまでもなく、もはやその結末は見えているのかも知れない。われわれはむしろ「戦後」にむけて準備すべきなのかも知れない。しかしそれでも、われわれは事態の推移から一刻も眼を離すことが出来なくなっている。 それはすでに、『新しい戦争』と呼ばれている。もはやあまりにも強大な軍事国家となってしまったアメリカ合衆国に戦争を挑むほど無謀な国家主体はありえない。しかし、今回のようなテロリズムは、事実上の攻撃の主体が欠如していることによって、報復しようにも近代的な戦争の形態すらとることができないのだ。

  • 大澤真幸【書評:柄谷行人著『トランスクリティーク』】

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    mn_kr 2008/02/20
  • 浅田彰【そしてダンスは続く――ピナ・バウシュの軌跡】 : 批評空間

    去る1998年10月9日から31日まで、ヴッパタールの町は時ならぬ祝祭気分に包まれた。ピナ・バウシュがこの町のタンツテアターの監督になって25年になるのを記念するフェスティヴァルが開かれたのである。そこでは、彼女の作品八つが再演されたほか、世界中のアーティストたちが彼女のために舞台に立った。27日には、アンヌ・テレサ・ド・ケースマイケル、ミハイル・バリシニコフとともに、ウィリアム・フォーサイスもヴッパタールを訪れ、現代のドイツを代表する二人のコレオグラファーが顔をそろえる歴史的なシーンがあったらしい。私は残念ながらそれに立ち会うことができなかったのだが、フェスティヴァルの最後の二日間ヴッパタールに滞在し、『パレルモ、パレルモ』と『フェンスタープッツァー』を観ることができた。 だが、まずは最初から始めなければならない。その点、今回のフェスティヴァルや来日公演(1999年)のプログラムに『タウ

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    mn_kr 2007/06/04
  • Critical Space

    10月24日にArchiveがスタートしました。 KARATANIWEB 小説、批評、芸術、音楽映画などで活躍する人たちが短評を寄せる時評欄 さまざまな媒体で掲載されたエッセイや論考を再録 旧『批評空間』Webサイト保存版 (2001/7/15 - 2002/8/20) Copyright © 2003 Critical Space. All right reserved. | KARATANIWEB | Page Top

  • ラカン、アルチュセール、デリダ――ジジェクの『汝の症候を楽しめ』をきっかけに/浅田彰

    スラヴォイ・ジジェクの『汝の症候を楽しめ』は、もともと1992年に出ただが、今年になって「『リアリティはつねに複数である』のはなぜか」という章を末尾に加えた増補版が刊行された。その序文で著者は「私の標準的なの形式は6章の長さであり、このの初版は5章しかなかったので、8年の遅れをへた今になってはじめて『汝の症候を楽しめ』はまさしく私のとなった」と言っている。その直後に初版の邦訳(筑摩書房)が刊行されたというのは、こうしてみると、いささか間の抜けた話には違いない。 このは、例によってヒッチコックなどの映画に則しつつラカンの精神分析理論をざっくばらんに解説していくもので、いつも通りのジジェク節が展開されている。だが、新版のカヴァーに寄せる言葉でジョアン・コプチェクの言うとおり、『汝の症候を楽しめ』というタイトルは、当時からどんどん強まってきた「他者の倫理」(「他者に応答責任をとれ」)と

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