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600 活版印刷と51 TECHNOLOGYに関するsatoschiのブックマーク (1)

  • huchi28

    貴族院議員に勅撰されたにもかかわらず、渋沢栄一はほとんど議場に顔を出さなかった。政治から距離を置きたいという気持ちが強かったのは事実である。しかし、そもそも国政にかかわる余裕がなかった。恐慌に翻弄されるなかで、関係する多くの会社が経営難におちいり、それに対処することに日々追われていたというのが実情だった。 たとえば栄一が相談役を務めていた日製帽は、巨額の赤字をかかえこんでいたし、京都織物は早くも倒産の危機に見舞われていた。日煉瓦製造や東京人造肥料も事情は変わらない。栄一はそれらの会社の救済のために文字どおり東奔西走している。 ほかに、こんな会社もあった。 長崎出身の平野富二(とみじ)は、1876年(明治9)に東京・石川島にあった元政府造船工場の敷地を海軍省から借用し、平野造船所を営んでいた。その経営は思わしくなく、資金繰りでいつも苦しんでいた。 平野は栄一のもとをしばしば訪れ、造船の重

    satoschi
    satoschi 2009/03/25
    平野富二が石川島の…、知らなんだ。
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