結党以来、最大の危機に突入している自民党が最終局面を迎えるのだろうか。さかのぼること30年、やはり自民党は深刻な混迷を経験していた。昭和54年10月の衆院選で、自民党は定数511に対して248議席しか獲得できず、続投を表明した大平正芳首相と福田赳夫氏ら反主流派との対立が激化。首相候補を一本化できずに、選挙後の特別国会も召集できない事態に陥った。自民党史上最大の派閥抗争と呼ばれた「40日抗争」である。 ハマコーこと浜田幸一氏(現在の浜田靖一防衛相の父)が、首相候補を決める両院議員総会を阻止しようと、反主流派が党本部の会場前に机で築いたバリケードを強制撤去した。回想シーンとしてしばしば放映されるのをごらんになった方もあるだろう。 10月に文相抜き(首相が兼務)で第2次大平内閣がようやく発足したが、そのとき大蔵政務次官に就いたのが、大平首相の政敵である福田氏の書生を経て政治の道を歩みだした小