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2014年12月14日のブックマーク (6件)

  • 超絶短詩 - Wikipedia

    超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。さらに篠原は、さまざまな応用も試みている。もっとも手の込んだものは、小倉百人一首の各短歌を複数の超絶短詩に分解した『百人一滝』(2003年)であろう。この試みにもとづく展覧会やカルタ製作も行われた。なお、篠原によれば、超絶短詩もまた、方法詩の一環をなす。方法詩とは、新たな型を自ら提案し、その型に即して詩作するというものである。 参考文献[編集] 『心にひびく短詩の世界』1996年、講談社現代新書 『言霊ほぐし』2001年、五柳書院 超絶短詩集『物騒ぎ』1996年、七月堂 超絶短詩集『水もの』1996年、七月堂 超絶短詩集『桃数寄』1998年、七月堂

  • 篠原資明 - Wikipedia

    篠原 資明(しのはら もとあき、1950年 - )は、日の哲学者・詩人(日文芸家協会会員)・美術評論家(国際美術評論家連盟会員、2014~2015年 日美術評論家連盟常任委員)。京都大学名誉教授。京都市立芸術大学客員教授、国立美術館運営委員会会長。専門は、哲学・美学。 1950年、香川県生まれ。1975年、京都大学文学部哲学科を卒業。1980年、同大学院文学研究科美学美術史学専攻博士課程を単位取得満期退学し、京都大学文学部助手となった。 その後は大阪芸術大学助教授、東京芸術大学専任講師となった。京都大学総合人間学部助教授となり、後に教授昇進。学外では、2005年4月から2015年3月まで国立美術館外部評価委員をつとめた。2006年、『トランスエステティーク』を京都大学に提出して文学博士号を取得。学界では、美学会会長(2010年10月~2013年10月)、日学術会議連携会員(2011

  • 『物と心』大森 荘蔵|筑摩書房

    大森哲学の神髄 対象と表象、物と心との二元論を拒否し、全体としての立ち現われが直にあるとの立ち現われ一元論を提起した、大森哲学の神髄たる名著。

  • 監獄の誕生―監視と処罰 / ミシェル・フーコー - 誰が得するんだよこの書評

    「自分の頭頂部が天から吊り上げられているようイメージしてください」。 社会人がマナー研修でよく聞く言葉だろう。姿勢をよくするためには、背筋を伸ばし、筋力を使って胸を張り、顎を引かなくてならない。そのような一連の制御を自然にこなすために、かくのごときフレーズが使われる。しかし、なぜ僕たちは自由になるはずの身体を、そのように制御しなくてはならないのだろうか。 講師曰く、「マナーとは、自己満足の対極にある概念です。たとえ、そのだらしない姿勢があなたを心地よくさせても、他人は不快に思うかもしれないでしょう」と。 つまり、僕たちは他人の快楽のために、自己を制御しなくてはならないのだ。他者の目に不愉快なものが映らないように、自分の身体を部品のように使用しなくてはならないのだ。フーコーはそのような規律・訓練のはじまりを、軍隊に見出す。 一つの身体は、人々が配置し動かし他の身体に連結しうる一つの要素となる

    監獄の誕生―監視と処罰 / ミシェル・フーコー - 誰が得するんだよこの書評
    yomayoma
    yomayoma 2014/12/14
    「主体」「自律」
  • 市民社会というフィクション - 『フーコー 生権力と統治性』

    ★★★★★(評者)池田信夫 フーコー 生権力と統治性 著者:中山 元 販売元:河出書房新社 発売日:2010-03-17 クチコミを見る ミシェル・フーコーが死去してから四半世紀以上たつが、いまだに彼の全貌はよくわからない。彼の早世によって主著『性の歴史』が途絶し、日では講義録の翻訳も止まっているため、彼の名はいまだに「構造主義」とか「人間の死」などのキャッチフレーズでしか知られていないが、著者も指摘するように、こうしたイメージは誤っている。 特にフーコーの中心テーマだった権力の問題については、彼の方針が二転三転し、まとまった著作を残さなかったため、早すぎた晩年の「空白の8年間」の講義やインタビューなどをたどらないと真意がよくわからない。書はそれを未公刊の草稿まで渉猟し、あちこちに分散しているフーコーの(断片的で一貫していない)権力論を体系的にまとめた労作である。 フーコーといえば、「

    市民社会というフィクション - 『フーコー 生権力と統治性』
  • (第3回)「動物化」論と「安楽への全体主義」

    教養とは何か、現代日人に教養は必要なのか--社会思想研究家の稲葉振一郎氏と翻訳家・評論家の山形浩生氏が、さまざまな切り口から「教養」を語る。 稲葉 「動物化」についての話をもう少し続けましょう。目先の刺激に単純に反応するという状態にある人たちに、「世の中、もっとおもしろいんだから、おもしろがれ」と言うのは無理押しでしょうが、第1回で山形さんが言われたように、その状態に飽きる人もいるはずです。みんながみんな、好奇心にあふれた立派な人間ではありえませんが、誰かがそういう人間であろうとしたときに、そのためのチャンスは開かれていなければならないと思うわけです。 山形 マウスをクリックすればくだらないものがすぐに手に入る、というのにもやがては飽きて、僕自身も一つの期待として、次の段階に行くだろうと思うわけです。ただ、最近の「動物化」論を見ると、そういう期待は甘いのかなという気もしていて、やっぱり「

    (第3回)「動物化」論と「安楽への全体主義」