追求される豊臣大坂城の姿 豊臣秀吉が築いた大坂城天守の姿は、現在にいたるまで人々の関心の的になり、資料を踏まえたさまざまな復元案が提示されてきた。昭和6年(1931)に復興された大阪城天守閣の外観や構造についてインターネット上でいろいろと指摘されるのも、在りし日の大坂城に対する関心の高さゆえだろう。 近年よく耳にするのは、「豊臣系」城郭では黒色、「徳川系」城郭では白色の外観が採用されるとの説に基づき、四層目まで白壁の大阪城天守閣は考証ミスではないかという意見だ。最上層のみ黒塗りであることから、「豊臣・徳川の折衷デザイン」と解釈されることもある。 それでは、歴史資料は大坂城の姿をどのように伝えているだろうか。 それぞれに異なる屏風での描かれ方 現在、豊臣時代の大坂城を描いたとされる屏風は5点存在する。最も古くから知られてきた「重要文化財 大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)に見える天守は、外