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2021年12月31日のブックマーク (14件)

  • 幸徳秋水ら処刑の日の前後 - 『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク(ブログ)

    明治44年(1911)1月24日 幸徳秋水ら処刑の日の前後 石川啄木「頭の中を底から掻き乱されたやうな気持」 大石誠之助 堺利彦 徳富蘆花 ■石川啄木 明治44年(1911)1月23日 ・石川啄木(25)、自宅にて1日中幸徳秋水事件関係記録を整理。 24日、夜~12時迄「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」の纏め。 25日、平井修より幸徳・菅野・大石等の獄中書簡を借りる。 26日、深夜迄、平出修の自宅で、7千枚17冊の特別裁判の「訴訟記録」のうち初めの2冊と管野に関する部分を読む。 *○啄木日記より 一月二十三日 晴 温 休み。 幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。 夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。 [受信欄]荻原藤吉といふ人より。 一月二十四日 晴 温 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。 社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と

    幸徳秋水ら処刑の日の前後 - 『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワーク(ブログ)
  • 作家・柳広司氏 「司馬さんと違う『明治』を書きたかった」

    【著者に訊け】柳広司氏/『太平洋堂』/小学館/1800円+税 大石誠之助、享年四十三。周囲の者たちから〈ドクトルさん〉あるいは〈ひげのドクトル〉と呼ばれ、親しまれていた彼は、なぜ罪に問われ、死ななければならなかったのか──。物語は、誠之助自らが厨房に立ち、人々に料理をふるまった堂の開店日、明治37年10月1日に幕を開ける。〈皮肉とユーモアと反骨の傑士〉の生涯を、当時の時代状況と共に描く。 大石誠之助は1867年紀州・新宮生まれ。アメリカ・カナダへの留学経験を経て、故郷に戻って医院を開く。幸徳秋水、堺利彦、与謝野鉄幹らと親交し、治療代は貧乏人からはお金をとらない〈無請求主義〉。堂では、今でいうこども堂のようなこともやっていたらしい。そんな彼のあり方に○○主義と名前が付けられた瞬間、既に悲劇は始まっていたのかもしれない。 「誠之助を書こうと思った直接のきっかけは、2018年1月に新宮市

    作家・柳広司氏 「司馬さんと違う『明治』を書きたかった」
  • ピアストーン:BLOG 〜おやじのつぶやき〜: 松尾卯一太

    昭和20年代の後半、現在は公民館になっている場所に、高齢の松尾夫がひっそりと住んでいた。私は父に連れられて、ちょくちょく遊びに行った。そこは竹林に囲まれた和室二間のちっちゃな家で、手入れが行き届いた庭には、瀬戸物の蛙や沢山の盆栽が並んでいた。ツルツル頭のご主人は何時も私を抱き寄せ、煎茶を飲みながら父と談笑されていた。一方奥方のチヨさんは元芸者!白髪を丸髷に結い、和服をきりりと着こなし、床の間には三味線が置いてあった。 私の小学生時代、今は土建業者の敷地になっている坂を上った一角に“病人小屋”と呼ばれた松尾家があった。蒼と茂る竹薮の中に佇む、幽霊屋敷みたいなその家は、戦前の結核隔離病棟で所謂洋館建て。当時も室内には幾つかのベッドが並んでいた。私がその家の子供と喧嘩をした時、大柄な母親が出て来て棒を振り上げて、大声で私を追い回した。たかが小学生の喧嘩如きに、親があれ程いきり立ったのは、今思

  • ETV 「埋もれた声 大逆事件から百年」 - elkoravoloの日記

    ETV特集で、「埋もれた声 大逆事件から百年」という番組があっていた。 http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html 大逆事件で処刑された人々の中の、特に和歌山の人々とその遺族の方について特集してあった。 昨年や今年、たまたま、石川三四郎や堺利彦や坂清馬の回想録を読んでいたのだけれど、大逆事件は生き残った人々の心にも当に深い傷と衝撃を与えたものだったと思う。 番組で映った、大石誠之助の顔写真には、当に胸を打たれた。 なんといえばいいのだろう、聖人のような、清らかなやさしそうな顔で、人間の生き方は顔に現れることを考えれば、当に立派な人だったのだろう。 大石は、アメリカやインドに留学した経験もある医師で、貧しい人々からは診療代をとらず、地域の医療や貧困問題に取り組んでいたそうである。 いつか、大石誠之助のお墓参りに行きたいと思った。 あと

    ETV 「埋もれた声 大逆事件から百年」 - elkoravoloの日記
  • 女系天皇がダメだという主張には説得力がない件|弁護士ほり

    女系天皇と皇位継承議論 皇位継承問題でたびたび議論にあがるのが、「女系天皇」の問題です。 この「女系天皇」という言葉の定義も細かくいうといろいろな議論になるのですが、ここでは「母親の方でしか天皇・皇族に血がつながらない天皇」「父親の系統(男系)を遡っていっても過去の天皇につながらない天皇」という意味で使うことにします。(「非男系天皇」という方が正確かも知れません。) わかりやすくいうと、女性天皇が一般男性と結婚して、その子が天皇になるとしたら、この意味での「女系天皇」ですが、この意味での女系天皇は、過去に一人も存在したことはありません。 また現在の皇室典範でも、 第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。として、さらに女性皇族が一般男性と結婚したら皇族の身分から離れることとしているので、女系天皇は認められていないことになります。(それ以前に、女性の天皇も現在の制度では認めて

    女系天皇がダメだという主張には説得力がない件|弁護士ほり
  • 面白いほどわかる大逆事件!簡単にわかりやすく徹底解説【幸徳秋水の目指した社会主義・無政府主義を考える】

    天皇暗殺を計画して爆弾を製造していた社会主義運動家が捕らえられた事件。社会主義・無政府主義を危険視していた政府はこの事件をきっかけに、関係者26名を有罪とし、そのうち12名が死刑になったが、そのほとんどが冤罪(無実の罪)だった。 無政府主義の中心人物だった幸徳秋水こうとくしゅうすいが冤罪で命を落とし、政府は大逆事件の後、危険な思想を取り締まる特別高等警察(特高)を置いた。

    面白いほどわかる大逆事件!簡単にわかりやすく徹底解説【幸徳秋水の目指した社会主義・無政府主義を考える】
  • 大逆事件の家族たち | 大逆事件

    『大逆事件の救援史』として連載執筆より抜粋。2008年5月より連載開始。2011年4月掲載から8月 堺利彦 百年前の一九一一年四月、堺利彦は処刑された同志の遺族への慰問目的と、直接的な弾圧を免れた社会主義の同志たちの状況を把握するために各地を訪問する。 官憲の史料であるが『社会主義者沿革第三』に「堺利彦、陰謀事件関係者遺族慰問の旅行顛末、附大石誠之助遺物の処分」と題された項目が残されている。 その報告から適宜引用をする。「三月三十一日出発同年五月八日帰京せり……」と、京都府の岩崎革也が堺に対し旅費を工面した事実から書き始められ、「金十円内外を堺に貸与したりと云う旅行中の重もなる事項を挙くれば左の如し」と以下各地での動静が十項目に分けられ記されている。岩崎の三月下旬の東京滞在時に堺や大杉栄が訪ねていることも別項目で報告されている。 岩崎革也は一八七〇年生れ。『平民新聞』刊行など初期の社会主義

    大逆事件の家族たち | 大逆事件
  • 大逆事件と高木顕明 - ビットコンサルティング

    大逆事件に関しては多くの研究書が出版されている。そのなかで、田中伸尚「大逆事件 死と生の群像」(岩波書店)は、大逆事件で裁かれた人々と、特に残された家族のその後に焦点をあて、家族や親族が暮らした地を訪ね歩き、丹念に取材を重ねた労作である。 「大逆事件は国家が個人の思想ー自由・平等・博愛ーを犯罪として裁いた、いわば心の自由殺しの事件だった」 1910年当時の日は、日露戦争の後韓国を併合し、植民地帝国へと暴走を始めたころである。この事件は、宮下太吉が信州・明科で爆裂弾を製造し、天皇暗殺を企てたとみなされたことに始まる。この爆裂弾製造事件に関与したとして、社会主義者や無政府主義者が芋づる式に検挙されていく。 この事件に巻き込まれ、裁判にかけられたのは26人に及ぶ。裁判は非公開で行われ、一人の証人も採用せず、わずか1ヶ月ほどの審理で結審するという異常さだ。 1911年1月、24人に死刑、2人に爆

  • 高木顕明さんというお坊さんの話(高山文彦) 2005  - 甘い生活 since2013

    大逆事件とは何だったのか、政府による単なる嫌がらせか。それとも見せしめだったのか。それとも、明治末期から大正初期の不安定な時代の中で、官憲が起こしてしまった大きなミスだったのか……。 その事件の当事者の方たちは、あまりの不条理で、おそろしい道におとしめられたものだと悔しかったはずですが、結局、そこから戦争へ少しずつ突入していったわけですから、やはり大陸侵略を当然の政策と考えていた政府関係者にとっては、目ざわりな者は殺せ、そしてどんどんやりたいことをやっていくのだ式の政策の一環だったのでしょう。あれから百年近く経過していますが、今の日はどれだけ犠牲者の人たちから学べたでしょう。 明治天皇暗殺を謀ったとされる大逆事件は、官憲のでっちあげによるものであったと、いまではわかっている。日に社会主義をひろめた幸徳秋水を暗殺計画の首謀者として、全国で社会主義者や無政府主義者数百名がいっせいに逮捕され

    高木顕明さんというお坊さんの話(高山文彦) 2005  - 甘い生活 since2013
  • 【子・孫が語る「昭和の首相」】(1)35代・平沼騏一郎(14年1月5日〜8月30日。238日) 平沼赳夫が語る(1/9ページ)

    昭和14年、法曹界で一時代を築いた人物を首相とする内閣が発足した。首相の名は平沼騏一郎。しかし騏一郎は、「欧州の天地は複雑怪奇」という有名なせりふを残し、わずか9カ月で内閣を退陣した。騏一郎は「右翼」「ファッショ」のレッテルを貼られ、戦後はいわゆる「A級戦犯」として裁かれた。養子として間近に見た元経済産業相、平沼赳夫は「騏一郎は非戦派だった」と語る。 ◇ 69年目となった今年の終戦の日、平沼は例年通りに靖国神社を参拝した。 <戦争に従事した英霊に「ありがとうございます」という思いしかない> 靖国には「祖父」と尊敬した騏一郎が合祀(ごうし)されている。「A級戦犯」らは日の主権回復後、国会決議によって名誉を回復された。ただ、騏一郎が祀(まつ)られることには複雑なようだ。 <騏一郎のことは頭に浮かばない。騏一郎は(軍人ではなく)文官だからね。母は合祀されたと聞いて「何でおじいさんは靖国に入らな

    【子・孫が語る「昭和の首相」】(1)35代・平沼騏一郎(14年1月5日〜8月30日。238日) 平沼赳夫が語る(1/9ページ)
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  • 幸徳秋水と女たち(2) - 幡多と中村から

    2024.08 « 123456789101112131415161718192021222324252627282930 » 2024.10 その三年後、秋水は二度目の結婚をした。相手はやはり兆民が介在した師岡千代子であった。千代子の父師岡正胤は平田派の国学者で、その門下生の一人が兆民とも交友があったことから縁談がまとまった。結婚式は、正胤の死後まもなくであったため、兆民は両家の父親代わりとして出席した。秋水二九歳、千代子二四歳。 しかし、秋水はその夜、またも吉原へと、同じ失態を演じた。今度は見合いを経ていたが、見合いの席では相手が顔を伏せたままであったので、実際を見ると期待はずれだったというもの。ここまでくると、異常の域を超えている。これも三申の後日談であるが。 千代子は国学者の娘だけあって教養は申し分なかった。父からのきびしい薫陶を受け、国文だけでなく、英語、仏語もできたほか、日

  • 幸徳秋水と女たち(1) - 幡多と中村から

    2024.08 « 123456789101112131415161718192021222324252627282930 » 2024.10 このほど大阪の管野須賀子研究会が「管野須賀子と大逆事件ー自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版、342ページ)を発行した。これまで「妖婦」とのイメージで伝えられてきた須賀子の真実の姿に迫ろうと、この間の研究成果をまとめたものである。この中で、幸徳秋水について私が書いた部分を2回に分けて紹介します。 幸徳秋水と女たち (原題:幸徳秋水 第7章4節の一部) 幸徳秋水は初期社会主義運動の理論的主柱であり、管野須賀子が最終局面において、最も深い関係をもった人物であるが、そのあたりのことは、すでに書でも書かれているので、ここでは須賀子に至るまでの秋水と女性とのかかわりについて、書きとめておきたい。 幸徳秋水(伝次郎)は、一八七一(明治四)年、土佐中

  • 40~50分おきに次々…『大逆事件』逮捕者たちの「早すぎる死刑」(魚住 昭) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

    ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。 奔放・豪快でありながら、どこか憎めない人柄で、周囲の人々を惹きつけてきた清治。起業までの軌跡を追う第二部では、講談社創立の原点となった雑誌『雄弁』創刊前後を描く。第二章の終わりでは、東大に弁論部が設立されたのを機に、設立に尽力しながらも首席書記として陰の存在だった清治が、表舞台に立ち始めた。 時代は、「政治的発言」に対する抑制が強まるころだった。弁論雑誌『雄弁』創刊にむかう清治の目には、「大逆事件」はどう映ったのだろうか――。 第三章 大逆事件と『雄弁』、そして『講談倶楽部』―十二人の死 (1) 何といふ早いことだらう 幸徳秋水が東京監獄(牛込〈うしごめ〉区市谷冨久町〈いちがやとみひさちょう〉[現・新宿区富久町]にあった)の絞首台で絶命したの

    40~50分おきに次々…『大逆事件』逮捕者たちの「早すぎる死刑」(魚住 昭) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)