発端は元久元年(1204年)。京の地で、平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が酒席で諍いを起こします。平賀朝雅は、北条時政と牧の方の娘婿でした。 その翌日、重保とともに上洛していた、北条時政と牧の方の子・政範が病で急死。 この2つの事件を受けて、牧の方は畠山重忠に対して一方的に恨みを募らせます。 朝雅から讒訴を受けると、牧の方はこれを重忠父子の叛意であると時政に訴えました。 元久2年(1205年)、時政は重忠討伐を決すると、三浦義村に命じて鎌倉にいた重保を誅殺。 さらに、重忠を「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」という虚偽の命で呼び寄せると、息子・北条義時に命じて、この討伐に向かわせました。 重忠は、同年6月22日、二俣川で義時率いる討伐軍と遭遇しました。 謀反などあずかり知らぬ重忠は、そこで息子重保が殺されたこと、自分に追討軍が向けられていることを知ります。 このとき重忠が率いていたのは130