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2023年5月3日のブックマーク (6件)

  • 大内義長 - Wikipedia

    大内 義長(おおうち よしなが)は、周防・長門両国の戦国大名。周防大内氏の第17代で事実上最後の当主。実兄はキリシタン大名の大友宗麟。 生涯[編集] 出生・大内家の猶子[編集] 天文元年(1532年)、豊後大友氏の20代当主・大友義鑑の次男として生まれる。幼名は塩乙丸。 天文12年(1543年)に尼子晴久との戦いで大内軍が敗走する際、大内義隆の養嗣子・晴持が死去。継嗣を失った義隆は天文12年(1544年)、姉婿である義鑑の次男・塩乙丸を猶子とした[3][4]。元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴英(はるひで)と名乗る。 晴英はあくまで養嗣子ではなく猶子であり、これは義隆に将来実子が生まれなかった場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友氏ではこれを歓迎した。しかし、天文14年(1545年)に義隆の実子・義尊が誕生したため、猶子関係を解消され帰国した[4]。この

  • 若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外) - 学問空間

    投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月 8日(火)14時45分55秒 ※teacup掲示板が8月1日に終了予定であることを受けて、今後、私自身の掲示板投稿にリンクを張る場合には、当掲示板ではなくgooブログ「学問空間」の記事の方に行うこととします。 早歌研究は外村久江氏(東京学芸大学名誉教授、1911生)を中心にして一時は相当な活況を呈したのですが、外村氏の業績をまとめた『鎌倉文化の研究-早歌創造をめぐって』(三弥井書店、1996)の出版以降、残念なことに研究の進展はあまりないようです。 中世芸能・歌謡史については、例えば辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)のように相当の深化が窺えますが、辻著でも早歌への言及は僅少ですね。 https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784814000746.html 早歌は作品の数が少ない

    若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(番外) - 学問空間
  • ラブレターズ

    その80(2002.6.12)二条という人 とはずがたり第5弾。 今日は作者二条人ついて書きたい。 きのう、近衛大殿と亀山院について書いたが、ここではいかにも仕方なしにという書き方をした。実際に、二条は仕方なしにこの2人と契ることになった。が、当のところはどうだったのだろうか。 この人は、当に嫌だったら嫌という意思表示のできる人である。実は、この2人についてはひそかに好意をもっていたフシがあるのだ。 二条は、父方が村上源氏の流れをくむ久我氏、母方が四条家であり、女御として入内してもおかしくない家柄の出身である。したがって、常日頃自分の出自に引き比べて、なんと屈辱的な扱いを受けているのかと嘆いている。二条という名前さえ気にいらないのだ。そんな中、上記の2人は後深草院に対して二条の目の前で二条の家柄の良さについて説いている。つまり、二条の気持ちの代弁者なのだ。 六条院の女楽の席次のことで

    ラブレターズ
  • 東慶寺 - Wikipedia

    山門。江戸時代には街道に面して大門があり 現在の山門は中門で男子禁制の結界だった。 円覚寺から見下ろす東慶寺全景 東慶寺の参道 東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。 ※境内での写真撮影は以前より一眼レフでの撮影のみが禁止されていたが、より一層のマナー悪化のためスマートフォンを含む全ての撮影が2022年06月07日から禁止となった[1]。 歴史[編集]

    東慶寺 - Wikipedia
  • 嘉暦の騒動 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年1月) 嘉暦の騒動 (かりゃくのそうどう)は、鎌倉時代末期の正中3年(1326年)、鎌倉幕府の執権である北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領長崎氏と、外戚安達氏の抗争による内紛。 経過[編集] 正中3年(1326年)3月13日、14代執権北条高時が病のために24歳で出家する。内管領長崎氏は、同じ得宗被官(御内人)である五大院宗繁の妹常葉前を母として前年12月に産まれた高時の長子太郎邦時を得宗家の後継者に推し、執権職を継承するまでの中継ぎとして北条氏庶流の金沢貞顕を15代執権に推挙する。貞顕の叔母は五大院氏に嫁いでおり、縁戚関係があった。貞顕は高時の出家に伴い5度に渡って出家を願い出たが、長崎氏によって慰留されていた。 高時の

  • 覚海円成 - Wikipedia

    覚海円成(かくかいえんじょう、生年未詳 - 康永4年/興国6年8月12日(1345年9月9日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての女性。安達氏の一族で安達(大室)泰宗の娘。鎌倉幕府9代執権北条貞時の側室。北条氏最後の得宗、北条高時の母。子は他に泰家など。覚海円成は出家後の法名で、実名は不明。覚海尼、大方殿とも。鎌倉の山内に住んでいた事から山内禅尼とも呼ばれる。 生涯[ソースを編集] 弘安8年(1285年)の霜月騒動で14歳の執権貞時を擁する平頼綱によって安達一族の多くが滅ぼされたが、頼綱が貞時によって誅された後に安達一族の幕府復帰が認められ、庶流であった安達泰宗の娘が貞時に嫁ぎ嫡子高時と4男泰家を産む。 応長元年(1311年)に貞時が死去すると、9歳の高時が北条得宗家の家督を継いで14歳で執権となる。貞時の遺言で幼主高時の後見を託された内管領の長崎円喜と、安達氏の一族で娘を高時に