斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。父と共に足利尊氏に仕えた。 生涯[編集] 中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し、争乱が勃発する。奥州に基盤を持つ家長は建武2年(1335年)8月30日に奥州総大将に任じられ[2][3]、北畠顕家を中心とした陸奥将軍府に対する幕府方の最前線を担った。家長は志和郡に下向し、高水寺城に入った[2]。 建武2年12月、顕家が後醍醐天皇の求めに応じて南下を開始すると、相馬重胤らを率いて後を追ったものの、食い止めることは出来ず鎌倉に入る[4]。家長はここで尊氏が鎌倉に残した嫡男・義詮を補佐する関東執事の地位も務めることになる。 顕家が上洛している数ヶ月の間、家長は軍勢催促や所領安堵などを行ったり、また陸奥には従弟の兼頼を派遣して南朝方に対抗させるなど精力的な活動を展開した。延元元年/建武3年(1336年)から翌年にかけて、その権限を行