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ブックマーク / www.nippon.com (6)

  • 承久の乱(下):武家が朝廷を破る、「配流の地」隠岐の島で後鳥羽上皇が過ごした日々(最終回)

    「鎌倉殿」の史跡を巡る 承久の乱(下):武家が朝廷を破る、「配流の地」隠岐の島で後鳥羽上皇が過ごした日々(最終回) 歴史文化 社会 2022.12.02 「執権・北条義時を追討せよ」との後鳥羽上皇の命令が引き金となった承久の乱。反撃に出た鎌倉幕府軍は朝廷軍を打ち破り、その後650年近く続く武家社会の画期となった。しかし、勝者がいれば、敗者もいる。隠岐の島へ流された「治天の君」後鳥羽上皇は、絶海の孤島で晩年をどのように過ごしたのだろうか。 激流の宇治川の戦い 京都市の南を流れる宇治川。この川に架かる宇治橋の周辺が、承久の乱で幕府軍が朝廷軍と激突した最後の関門となった。河原に降りてみると、橋桁のそばは白く渦巻くほどの奔流となっている。琵琶湖を水源とする宇治川は水量が多く、流れが速い。宇治橋は長さ150メートルあるから、川幅もかなり広く、幕府軍を悩ませたのではと想像できる。 宇治橋のたもと

    承久の乱(下):武家が朝廷を破る、「配流の地」隠岐の島で後鳥羽上皇が過ごした日々(最終回)
  • 皇室の皆さまのお住まいは?:皇居と宮邸、御用邸、皇室関連施設

    皇室の皆さまは東京都内で暮らしている。天皇は皇居を居所とするが、新陛下は当面、これまで通り皇居から西に1.5キロほど離れた赤坂御用地にある赤坂御所(旧東宮御所)にお住まいになる。そのほかの宮家も赤坂御用地などに住まいがある。 皇居は徳川幕府の居城・江戸城があったところで、JR東京駅の西側に位置する。明治元年(1868年)に皇居となった。翌年、明治天皇が入り、皇居は正式に京都から東京に移った。 総面積は115万平方メートルあり、周りを堀で囲まれている。二重橋が臨める正門をはじめ8つの門があり、その一つである北側の乾門から南東に延びる乾門通りを境に、東西の二つの地区に分かれている。 東側地区には旧江戸城の丸などがあり、一部を除いて皇居東御苑として公開されている。西側地区は、吹上御苑と旧西の丸からなる。ここには、天皇ご夫の住居である御所、各種行事を行う宮殿、宮内庁の庁舎、歴代皇后が伝統を守っ

    皇室の皆さまのお住まいは?:皇居と宮邸、御用邸、皇室関連施設
  • 即身仏:厳しい修行の果てに涅槃(ねはん)を目指したミイラ仏

    これらの即身仏を護持しているのは、いずれも江戸時代に湯殿山信仰の拠点となった寺院である。湯殿山の御宝前(ごほうぜん、明治以降は御神体)は山そのものでなく、温泉の湧き出る巨岩。温泉に含まれる鉱物が固まった「温泉ドーム」と呼ばれるもので、湯殿山は古来より出羽三山の奥の院として崇められてきた。 1641年に羽黒山が天台宗に統一されて以降、出羽三山では天台宗と真言宗の対立が深まった。徳川幕府の公認を得て巨大な勢力となった天台宗に対して、真言宗側は寺社奉行に訴訟を起こして、「三山のうち、羽黒山・月山は天台の山、湯殿山は真言の山」という裁定を得た。 即身仏となったのは一代限りの修行者を意味する一世行人(いっせいぎょうにん)で、門前集落の出身ではなく、外部から来た下層の宗教者である。真言宗側は、湯殿山で一世行人を修行させることで宗教的能力を体得させ、布教の前線で活動させて天台宗に対抗した。江戸時代に庄内

    即身仏:厳しい修行の果てに涅槃(ねはん)を目指したミイラ仏
  • 本屋を失った街に三省堂書店が現れた日―北海道の留萌ブックセンター(上)

    人口2万5千人の留萌市から屋が消えたのは2010年12月。それから7カ月後、人口30万人以上でないと出店しないルールを持つ三省堂書店が出店した。それはどうしてだったのか。 4月だというのに、その日は雪がちらついた。地元の人は5月の連休が明けるまではスタッドレスタイヤを外さないという。ゆったりとした坂道を登りつめると、眼前に日海が広がる。北海道の西端にある留萌の海岸からは水平線の下へと沈むまん丸で真っ赤な夕陽を見ることができる。 留萌の坂道 美しい地名はルルモッペ(=潮の静かに入るところ)というアイヌの言葉に由来する。明治期ににしん漁により港町として留萌の地が拓けた。炭鉱業も栄え、1910年には留萌線が開通、続いて1932年には留萌港が竣工した。 昭和の頃、正月ともなると、新年を祝う人たちがこの坂道をぎっしりと埋め尽くしたものですよ。 タクシーの運転手が問わず語りに聞かせてくれた。通り

    本屋を失った街に三省堂書店が現れた日―北海道の留萌ブックセンター(上)
  • 『浅草田圃酉の町詣』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第24回

    歌川広重「名所江戸百景」では第101景となる『浅草田圃酉の町詣(あさくさ たんぼ とりのまち もうで)』。吉原の遊郭の窓から、鷲(おおとり)神社の「酉の市」の大行列を眺めた1枚。 酉の市の日は吉原の妓楼でも商売繁盛 広重の時代、浅草寺の北側は田圃の広がる場所だったようだ。古地図を見ると、その田圃の先には鷲明神(現・浅草鷲神社)と吉原があったことがわかる。 が登場していることで近頃人気がある元絵だが、実は吉原の妓楼の控部屋から夕方の鷲明神方面を眺めている。窓の向こうには、「酉の祭(とりのまち、現在の『酉の市』)」へ詣でる大勢の人たちが描かれている。部屋の中に目を転じると、畳の上には客からもらったのであろうか、熊手の形をした簪(かんざし)が並べられている。 「酉」は「取り」に通じることから、旅籠(はたご)、料亭、芸能、妓楼(ぎろう)などの「客を取リ込む」商売の人々が多く参詣したという。妓楼ひ

    『浅草田圃酉の町詣』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第24回
  • 日本の科学研究—地盤沈下は止められるのか

    「日の科学研究は過去10年で失速」と報じた英科学誌「ネイチャー」の3月の特集は、若手研究者たちの厳しい現状を浮き彫りにした。先端科学研究に携わる筆者が、大学の研究体制の構造的問題を指摘する。 減少をたどる日発科学論文日の科学にとって憂うべきレポートが、最近、英科学誌「ネイチャー」(3月23日号) に掲載された。過去10年間に日の科学は失速し、他国に遅れをとっている、という内容である。わが国のニュースではそろって「衝撃的」と報道されていたが、当事者、特に大学で研究に従事している人たちにとっては、日頃からの懸念が裏付けされたにすぎない。 「Nature Index 2017 Japan」と題されたそのレポートの骨子は、複数のデータベースに基づいて日からの論文発表の経年変化を他国と比較したものだ。また、なぜそのような状況に至ってしまったのかについて考察している。その内容を簡単に紹介しな

    日本の科学研究—地盤沈下は止められるのか
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