タグ

ブックマーク / www.tapthepop.net (9)

  • 夢のカリフォルニア〜ママス&パパスの名曲にまつわる時代背景と誕生秘話

    木の葉はみんな枯葉色、そして空はどんより鉛色 そんな冬の日、僕は散歩していたんだ もしロスにいれば気持ちが安らぎ暖かいのに… こんな冬の日にはカリフォルニアを夢見るよ 1965年のこと。 ミシェル・フィリップス、キャス・エリオット、デニー・ドハーティ、ジョン・フィリップスという、一組の夫婦を含んだ男女4人によってママス&パパスは結成される。 彼らが同年に放ったデビューシングル「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」は、たちまちヒットチャートを駆け昇り、時代を代表する一曲となる。 その“時代”とはどんな時代だっのか? ―――彼らは、当時ウェストコーストロックの特徴でもあった“フォークロック”の先駆者であり、サンフランシスコを中心に全米に広がっていったフラワームーブメント(平和運動)の中心にいた。 ベトナム戦争を背景に、平和と愛の象徴として花で身体を飾っていた若者達は“

    夢のカリフォルニア〜ママス&パパスの名曲にまつわる時代背景と誕生秘話
  • 12月31日に全盛期の輝きを取り戻したエルヴィス・プレスリー

    “キング・オブ・ロックンロール” “史上最も成功したソロ・アーティスト” 貧しい片田舎出身の若者、エルヴィス・プレスリーは1950年代後半、わずか数年で誰も掴み得ないような成功と名声を手に入れた。 1960年代に入るとマネージャーの意向もあって俳優業に専念するが、1968年からは人の希望もあってコンサート業を再開させる。 ([TAP the LIVE]エルヴィス・プレスリー~7年ぶりのステージで復活を遂げた伝説のロックンロール・スター) その後も1973年1月に史上初となる衛星生中継でのコンサートを成功させるなど、エルヴィスは依然として第一線で活躍し続けていたが、この頃から少しずつ健康に支障をきたし始めた。 酒やタバコ、ドラッグといった類とはほとんど縁のなかったエルヴィスだが、好物のピーナッツバターとバナナのサンドイッチを始めとした高カロリーな事が彼の身体を蝕んでいったのだ。 年間に約

    12月31日に全盛期の輝きを取り戻したエルヴィス・プレスリー
  • ストーンズやツェッペリンが100万ドル積んで欲しがったロバート・ジョンソンの“3秒半”

    フィルムに写り込んだ男はあの伝説のロバート・ジョンソンなのか? ことの起こりは、ミシシッピ州ルールヴィルというスモールタウン。町の古い映画館の倉庫から、埃が積もった16ミリのフィルムの束が見つかったのだ。 オーナーのベムは何十年も前に、16ミリのサイレントでルールヴィルの日常生活や通りを行き交う人々を撮影。彼は当時、そのフィルムを自分の映画館で上映して、スクリーンで実物大以上に映る自分を見た観客たちから大好評を博していた。 見つけ出したのは、祖母がこの映画館で働いていたレオ・オールドレッド。彼はメンフィスの人気ラジオ局でブルーズ番組を担当するほか、ツーリストで賑わう有名なビール・ストリートでブルーズ雑貨店を営むほど、ブルーズを心から愛する男だった。リスナーや店の常連たちは親しみを込めてテイター・レッドと呼んでいた。 貴重なフィルムは、保存のために可能な限りビデオに移し替えられ、マスターテー

    ストーンズやツェッペリンが100万ドル積んで欲しがったロバート・ジョンソンの“3秒半”
  • 19年ぶりに実現したジョー・ストラマーとかつての相棒、ミック・ジョーンズとのステージ

    ジョー・ストラマーが心臓疾患により突如としてこの世を去る日からおよそ1ヶ月前の2002年11月15日。 ロンドン西部のノッティング・ヒルにあるアクトン・タウン・ホールでは、消防団組合のストライキを支援するチャリティイベントが催され、ステージではジョー率いるメスカレロスがライブをしていた。 クラッシュ時代から労働階級の側に立って歌ってきたジョーは、主催側からのオファーを二つ返事で受けたという。 2曲目が終わると、ファンに向けてジョーから嬉しい情報が伝えられた。 クラッシュでのかつての相棒、ミック・ジョーンズも今日のステージを観に来ているというのだ。 この日、ミックは一緒に観に行く予定だった友人がドタキャンしてしまい、行くのをやめるか迷ったという。 そして悩んだ末に、タクシーを捕まえて会場へと足を運んでいたのだ。 ジョーがミックをクラッシュから解雇したのは1983年のこと。 のちにジョーはこの

    19年ぶりに実現したジョー・ストラマーとかつての相棒、ミック・ジョーンズとのステージ
  • ジョー・ストラマーが「ロック・ザ・カスバ」に込めたメッセージ

    シャリフはそいつが気に入らないのさ カスバをロックしろ カスバをロックで揺らすんだ ザ・クラッシュの「ロック・ザ・カスバ」は、アメリカ進出後、彼らにとって最大のヒットとなったわけだが、この曲の成功に大きな役割を果たしたのが、始まったばかりのMTVだった。 1981年。テキサス州オースチンの撮影現場には、後にアーノルド・シュワルツェネッガーの『ラスト・スタンド』(2013年)に町長役で出演する若き日のティトス・メンチャカの姿があった。 「あのビデオが撮影されたのは、MTVが始まる何ヶ月か前のことです。私は当時、演技を学ぶ学生でした。それまでも舞台に立った経験はあったのですが、カメラの前に立つということは、また別の獣に相対することでした」 ティトスはシーク教徒の役を演じることになっていた。クラッシュの楽曲をプロモーションするための音楽ビデオを作るのだと説明されても、彼にその意味はよくわからなか

    ジョー・ストラマーが「ロック・ザ・カスバ」に込めたメッセージ
  • 暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの

    ♪ ほら、太陽が顔を出した ほら、太陽が顔を出した 最高な気分さ ♪ イギリスの冬は暗く、長い。 だからこそ、春の日差しを待ちわびるのだ。 ジョン・レノンも「アイ・アム・ザ・ウォラス」の中で、「イングリッシュ・ガーデン(英国式庭園)に座り、太陽が顔を見せるのを待っている」と歌っている。 そう、ジョンがそう歌ったように、その時、ジョージ・ハリスンはギターを手に、庭にいた。彼の家ではない。親友エリック・クラプトンの家の庭である。 1967年。ビートルズのメンバーは冬の空のように屈とした日々を過ごしていた。 彼らを育て上げたマネージャー、ブライアン・エプスタインが突然この世を去ってからというもの、メンバーは音楽のことではなく、会計やビジネスのことで頭を悩ますことが増えていた。 ジョージはそんな日々から逃げるようにして、エリック・クラプトンの家を訪れていたのである。 ドキュメンタリー映画『ザ・マ

    暗く、寒い日々の中でジョージ・ハリスンが待ち望んだもの
  • 『くまのプーさん』の家で「ジョンとヨーコのバラード」を聴いていたブライアン・ジョーンズ

    ロンドン郊外のサセックス州ハートフィールドにあるコッチフォード農場は、『くまのプーさん』で有名な作家のA.A.ミルンが住んでいたことで知られていた。 その農場と家をローリングストーンズのブライアン・ジョーンズが講入したという記事が、音楽誌に掲載されたのは1968年の秋のことだった。 そのころのブライアンは世界的に大きな成功を手に入れたバンドの中で、一人だけ精神的な落ち込みがひどく、過剰なドラッグの乱用から舵を失った船のようになっていた。 キース・リチャーズは1971年のインタビューで、「ブライアンは脆くなった。年々その脆さに拍車がかかっていったんだ。心身ともにね」と述べている。 63年から66年まではとにかくノンストップで働き詰めだった。その間に休めたのは2週間だけさ。 やつはタフだったが、いろんなことが積み重なって、どんどん脆くなっていったんだ。 初めて会った時のブライアンはウェールズの

    『くまのプーさん』の家で「ジョンとヨーコのバラード」を聴いていたブライアン・ジョーンズ
  • クラッシュ~「あんな夜は生涯に一、二度あるかないかだね」

    「あの夜は、まさにパンクがブレイクした日だ。」 クラッシュのボーカル、ジョー・ストラマーは1977年5月9日のライブについてそう言葉を残している。 1977年、セックスピストルズを中心としたパンク・ムーブメントの流れに乗り、大手レコード会社との契約を果たしたクラッシュは3月に「White Riot」(「白い暴動」)でレコード・デビューを果たし、4月には1stアルバム『The Clash』をリリースする。 5月から始まったホワイト・ライオット・ツアーにはザ・ジャムやバズコックスなどが帯同し、1ヶ月で25公演という強行スケジュールでイギリス国内を回ることとなった。 そして5月9日、この日はジミ・ヘンドリックスが初めて火をつけたことでも知られる、ロンドンのレインボー・シアターでのライブだった。 3000人を収容できる大きな会場はソールドアウトとなり、番前にはクラッシュに招待されたボブ・マーリィ

    クラッシュ~「あんな夜は生涯に一、二度あるかないかだね」
  • 高額所得者に対するあまりにも高い税率を諷刺した、ジョージ・ハリスンの「タックスマン」

    ビートルズのジョージ・ハリスンが、英国の税金制度に疑問を持ったのは20代の半ばにさしかかった頃のことだ。1965年に多大な外貨を獲得した働きによって、ビートルズはイギリスから大英帝国勲章MBEを受勲したが、高額所得者として当時の税制における最高税率をかけられた。 収入が多ければ多いほど徴収される税金が増えていく仕組みを弁護士や会計士から教えられて、ジョージは高額所得者に対するあまりにも高い税率を諷刺した新曲を作った。 1966年4月20日、「タックスマン(Taxman)」のレコーディングが始まった。 さぁて、まずはどうなるのかをお教えいたしましょう 1があなたの分、19はわたくしの取り分です なぜならわたくしが税金取りだからです そうです、わたくしはタックスマンなのです 税金を取り立てるタックスマンの非情さを慇懃無礼な言い回しでからかう調子のなかには、そこはかとないユーモアが漂っている。「

    高額所得者に対するあまりにも高い税率を諷刺した、ジョージ・ハリスンの「タックスマン」
  • 1