サブタイトルは先史世界の初期絵画表現。原著タイトルは”Scenes from Deep Ttime: Early Pictorial Representation of the Prehistoric World” 19世紀のパレオアートについての科学史 「恐竜図鑑―失われた世界の想像/創造」展 - logical cypher scape2の副読本として読み始めたのだが、行く前に読んでおくべき本だった*1。少なくとも、恐竜図鑑展の第1章についての理解度は爆上がりするし、「パレオアートって一体何だ」というモヤモヤ感もある程度は解消する。 この本の存在自体は、以前から知ってはいたのだが、邦訳があることを認識していなかった*2。実は原著は電子で買っていたのだが、そのまま積んでいた。英語で読める気がしないので邦訳があってよかった*3。 聖書の挿絵についての伝統を伏線としながら、過去の伝統から何を
現在の日本では、犬や猫、小動物や鳥など、様々な動物がペットとして飼育されていますが、江戸時代にも鳥をペットとして飼育するブームがありました。鳥の飼育は奈良時代から行われていましたが、江戸時代には鳥好き大名が海外の鳥を盛んに輸入しました。中期頃になると、庶民の間にも広がっていき、家での飼育だけでなく、鳥の見世物の施設ができました。孔雀茶屋、花鳥茶屋といった施設で、飲食と組み合わせて異国の珍鳥を楽しみました。 また、資金力のある大名の中には、多くの鳥を描いた図譜を作成する者も現れました。自ら絵を描き、あるいは本草学者や画家が描くことで、美しい図譜が作成されました。 ここでは図譜に描かれた鳥を通して、江戸の人々と鳥との交わりを少しご紹介します。 大名、旗本・上層武士、貴族たちが飼った鳥江戸時代にヨーロッパ人が飼育していたカナリアやインコが持ち込まれました。いわゆる「鎖国」の時代に、将軍家や大名が
バーブルの時代のムガル帝国軍。訓練を兼ねた狩りの様子。戦象に乗った兵が獲物を追っている。 戦象(せんぞう)とは軍事用に使われた象のことである。主にインド、東南アジアや古代地中海世界で用いられ、突撃で敵を踏み潰すか、あるいは敵戦列を破砕することを主目的とした。象の社会は血縁のある雌の群れを基礎とした母系社会であり、それが原因で雌象は他の雌象へ向かって行く傾向があったため、軍用には雄の象が用いられた。 歴史[編集] 象を家畜化する試みは、4000年前のインダス川流域で始められた。しかし、低い繁殖力と成長の遅さ、飼育下の群での繁殖の困難さ、妊娠期間の長さのために、おそらく大半は、そして現代に至るまでケッダなどと呼ばれる追い込み罠で野生のインドゾウを捕まえて飼いならしていた。初期の象の利用は、強い力を生かした農耕の補助にあった。軍用の起源は紀元前1100年ごろで、その活躍をたたえるサンスクリットの
アメリカ陸軍ラクダ部隊(アメリカりくぐんラクダぶたい、英:United States Camel Corps)とは、19世紀半ばにアメリカ陸軍によって行われた試みである。アメリカ南西部におけるラクダの荷役動物としての有用性が検討され、ラクダは丈夫でこの地域の移動に適していることが判明したが、軍事利用されることはなかった。南北戦争の影響もありこの実験は中止された。 始まり[編集] 1836年、フロリダでのインディアン戦争での経験から、ラクダが荷役動物として有用であると確信したアメリカ陸軍のジョージ・H・クロスマン少佐は、陸軍省にラクダを輸送手段として利用することを勧めたが、具体的な動きはなかった。 1846年から1848年にかけてのメキシコとの戦争は米国の勝利に終わり、アメリカは南西部に広大な土地を手に入れた。現在のアリゾナ州、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州
シマウマを家畜化したいという人々のチャレンジ 歴史上、数多くの人がシマウマを家畜化しとようと試みてきました。 記録には全く残ってませんが、アフリカ牧畜民はおそらくシマウマを飼い慣らそうと相当な努力をしてきたと思われます。しかし現在シマウマを飼い慣らせてないということは、その試みが失敗に終わったということです。野生のシマウマが人に懐かないのは、アフリカ牧畜民があまりにしつこかったため、人を恐れる習性がシマウマに組み込まれてしまったのではという説すらあります。 19世紀以降、アフリカを植民地としたヨーロッパの人々は、大量にいる野生のシマウマをなんとか家畜化して活用しようとして、いくつかの成功事例が出ますが、おおよそ失敗に終わっています。 1. なぜシマウマを家畜化しようとしたのか シマウマは見た目はウマに似ているし、シマ「ウマ」と言うのでウマと似ているような誤解を与えるのですが、実はロバの近縁
発端→DeNA入来のウナギ捕獲ニュースを見ながら「古代エジプト人の崇めたウナギ神ってやつがいてだな」 でウナギ画像を探したところから、昔は疑問に思わなかったあることに気がついてしまう… ★こちらがウナギのミイラ箱 大英博物館所蔵。日本にもきたことある。 http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/aes/b/bronze_relic-box_for_an_eel.aspx どちらも同じスタイル、同じく原初の神アトゥムに捧げられたものでありながら、一方がウナギで一方がコブラとはこれいかに。大英博物館のほうがウナギなのは確実なのです。拡大するとウロコとヒレが体に描かれているのでヘビではない。 …そこでよくよく説明を読んでみて気がついた。 そうもう分かりましたね… これ 前半分がコブラで後ろ半分がウナギの架空
本来の柏(漢名)はシダレイトスギ(柏木)もしくはヒノキ科の常緑樹、日本語の中ではハクと読む。カシワと訓じる場合はブナ科の落葉樹であるカシワを指す。ただし、「かしわもち」の「かしわ」は「炊し葉」であって、植物和名のカシワは後からできた。 「かしは(加之波、カシワ)」というのは万葉集にも詠まれ、アカメガシワやミツナガシワ(カクレミノか)など、食べ物を蒸すときに下に敷いた「炊し葉」であり、特定の植物の葉ではないことは多くの古典に記されている。 実際に使用された葉は何かと言えば、サルトリイバラが全国的に最も多く、関東・東海地方を中心にカシワ(モチガシワ、古名はナラ類の総称としてのハハソ)がそれに次ぎ、ホオノキ(岐阜県など)、ハリギリ(神奈川県)などがある。 植物方言研究の第一人者の倉田悟(1962)によると、「日本人により柏餅を包むのに利用される植物の葉は、その土地々々によりいろいろであるが、なか
当サイトは、古文書を使ってタイムトラベルしてきた蟲「もんじょこむし」が歴史や物語を復元する研究「古文書昆蟲学」において集めたデータの、蓄積・活用・公開を目的としたものです。記録の残りにくい庶民的な生活を物質的に復活させうる極めて稀な研究です。 1.はじめに 2.用語について 3.蟲データ 4. 典拠 5.利用規約 コンテンツは画面上部のメニューから選択することもできます。
川端裕人メールマガジン「秘密基地からハッシン!」より 幻の鳥・ドードーの来日説を裏づける『オランダ商館長の日記』 川端裕人メールマガジン『秘密基地からハッシン!』vol.002より 〈ロンドン自然史博物館にあるドードーの「伝統的な」復元。本物の剥製ではありません。他の鳥の羽を使ってそれらしく整えられたもの〉『秘密基地からハッシン!』vol.004より 創刊号から連載している「ドードーをめぐる堂々めぐり」第2回(第1回はこちら)。インド洋マスカリン諸島のモーリシャス島に生息していたドードーは、17世紀に絶滅したといわれていた幻の飛べない鳥である。この生き物が「じつは1647 年の江戸時代初期に日本に来ていた」という情報が筆者のもとに入ってきた。長い長い“ドードー・チェイス”が、いま、幕を開けるーー ドードーが「日本に来ていた」という論文がある。 ロンドン自然史博物館のジュリアン・ヒューム博士
古代人は果たしてヒクイドリのヒナを育てていたのか、それともヒナとして食べていたのか。 ニューギニア高地の遺跡から出てくる大量のヒクイドリの卵のカラを調べてみると、孵化する直前のものが多く、故意にその時期のものを集めていた可能性が出てきたのだという。 時代は更新世~中期完新世(約8,000年前まで)。ヒクイドリは言わずと知れた凶暴な鳥で、ダチョウ以上に飼いづらい。現代に至るまで飼育化はされていないものの、鳥類の習性で、孵化する時に人間を見ていれば刷り込みによって人間を母親だと思いこむことはあるらしい。 元論文 Late Pleistocene/Early Holocene sites in the montane forests of New Guinea yield early record of cassowary hunting and egg harvesting https://w
おいしい野鳥が食べたい!――幕府の権力をもってしても、江戸のグルマンの食欲を抑え込むことはできなかった。失われた食文化の全体像を、初めて描き出す異色作! 江戸時代の人々は、多くの「野鳥」を多彩な調理法で食していた。鶴、白鳥、鴨、雁、雉子、雲雀、鷺、雀、鳩・・・それらは、食のみならず政治や経済、儀礼などをめぐって、魚やほかの動物たちには見られない、複雑で高度な文化の複合体を形作っていた。鳥は、日本文化そのものを理解するうえで欠かせない重要な動物だったのである。 歴代の徳川将軍は、鷹狩で野鳥を狩り、鶴を天皇に献上し、また大名や家臣に獲物を分け与えた。中・下級の武士たちは雁鍋や鴨鍋を楽しみ、裕福な町人は料亭で野鳥料理に舌鼓をうち、庶民は鴨南蛮や雀焼といった素朴なファストフードを頬ばった。幕府によって野鳥流通が厳しく統制され、日本橋の水鳥市場は活況を呈し、その大きな利権を狙ってアウトローたちがうご
紹介 日本の“国虫”はゲンジボタルで決まり?! 「あなたの情はセミの羽のように薄い」と夫を難詰した『蜻蛉日記』の作者。クモの糸のおかげで九死に一生を得た源頼朝。蛾に想いを託した幕末のヒーロー土方歳三。バッタの跳躍力をまとった仮面ライダー。日本人と昆虫との奇妙な関係を探る〈文化昆虫学〉のエッセンスが詰まった新しい教科書誕生! 〈文化昆虫学〉は1980年代にアメリカで提唱された。その研究対象は文化的/余暇的なモノである。しかしながら、これまでの文化昆虫学の分析対象は、有名古典文学や美術史上の重要絵画など、主に上流階級が担った“お堅い文化”に限定されてきた。本書は、明治大正期のペット昆虫、現代の特撮やアニメ、街中のお菓子のモチーフなど“大衆文化”に見られる昆虫にも着目し、『万葉集』『枕草子』からは見えてこない、日本人と昆虫との知られざる関係を明らかにした、令和新時代の文化昆虫学の教科書である。
京都の桜が、記録の残っている過去1200年で最も早く満開を迎えた。大阪府立大学の生態気象学研究グループの調査が指摘している。
in English はじめに 京都では遷都以来,多くの人々の手により日記が書かれ,またそれを基にした編年体の年代記がまとめられてきました。これらの多くは現存しており,過去の毎日の天気などを知ることもできます。こうした日記類,年代記類の中には,花見をしたとか,花(サクラ)が満開になったとかが書かれている場合が結構あります。日記などは毎日の記録なので,そうしたも記事の書かれていた日付を集積していけば,『サクラの満開日』としての植物季節データとなるのではないか,と思われるわけです。そしてこうした『満開日』から,春先の気温を推定する方法さえ編み出せば,古い時代の春の気温もわかるのではないか,ということで,いろいろな日記を紐解きながら集めたのが,このページのデータです。 この種のデータは過去にも,田口(1939),関口(1969)により調査,追加,整理されてきましたが,このページのデータは,新たに
このページをご覧のみなさまへ あまづらは、残念ながら自分で作らないと手に入りません。このページをご覧になった方で、よーし私も、と思う方もあることでしょう(おいしいですよぉぉぉ)。そこで、作業の注意点やコツも交えて、再現実験の様子をご紹介しましょう。 Ⅰ あまづらを作ってみるぞ! 奈良女子大学大学院の国際社会文化学専攻では、「文化史総合演習」と「Web情報実習」という特別科目※を開講し、歴史系の大学院生の研究と実践的活動を進めてきました。平成22年度は、和菓子の歴史を中心に研究活動を行ってきましたが、その中で特にあまづら(甘葛)という甘味料に着目しました。 ※「女性の高度な職業能力を開発する実践的教育」(組織的な大学院教育改革推進プログラム)の一環として開講 あまづらは、平安時代までは高貴な甘味料として、文献史料にもしばしば出てきますが、砂糖が普及するにつれて次第に忘れ去られ、何からどのよう
失われた幻の甘味料「甘葛」 砂糖が日本に伝来したのは754年。唐の高僧・鑑真によるものとされています。しかし、砂糖が広く口にされるようになるには、鎌倉時代以降の対外貿易の拡大まで待たねばなりませんでした。 ですが、古代の日本人もおいしいスイーツを食べていました。当時の日本には「甘葛(あまづら)」という甘味料があったのです。 甘葛は多くの古典籍にたびたび登場しています。たとえば芥川龍之介の名作『芋粥』のもととなった『今昔物語集』『宇治拾遺物語』の説話には、甘葛で煮た芋粥が饗宴のご馳走だと記されており、飽くほど食べたいと望む貴族が登場しています。 さらに『枕草子』では、夏に氷室から出された氷に甘葛をかけるかき氷が「あてなるもの(上品で雅なもの)」として登場しています。 貴族社会における優雅な生活文化を演出する上で、甘葛はとても重要な存在でもあったのです。 ▲清少納言著『枕草子』四十七段「あてな
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