板倉聖哲[編]『李公麟「五馬図」』Li Gonglin 'Wuma-tu’ (Li Gonglin’s Five Horses)
Yoshiharu ISHIOKA @yishioka リシャールがマラルメに見出した「想像的宇宙」。それをひとつの理論装置と考え、狭義のテマティズムとは別様に、その射程を展開することができるのではないだろうか。 2012-04-02 03:42:25 yusuke miyazaki @parages @yishioka デリダの「力と意味」(『エクリチュールと差異』)と「二重の会」(『散種』)を「リシャール殺人事件」(蓮實重彦)のように敵視することなく、リシャールの理論的再読として肯定的に読み替えることができれば、その近道になるのかなと思います。 2012-04-03 00:12:20 nibuya @cbfn デリダは深層という「底を抜いてしまう」ことによってリシャールを「殺した」のではないか。デリダはマラルメを底のない虚無の「表層」の油膜模様のように「散らした」のではないか。これは後
17.映画とともにある精神分析学 北野 では僕自身のポジションから考え直させていただきますと、そもそも精神分析が嫌なのは、僕がドゥルーズというよりもドゥルーズ=ガタリが好きなタイプの人間であるからです――ある種の分析哲学の方向というものも大好きなんですが。個人的な趣向はともあれ、精神分析で映画を語るというか、精神分析がグランド・セオリーなのではないかという気がなんとなくしていて、それに目を開かせてくれたのがキットラーだったと思うんですよ。映画が出てくるが故に精神分析が出てくるとまでは言いませんけれども、映画と精神分析の出自というのがかなり時代的に接近していて、エピステーメ・レベルでは相互関係がなかったわけではない。ヒステリーの身体とスクリーンに機械的に再現されてしまった身体、あるいは蓄音機で機械的に再現されてしまった声などに、遭遇したときの途方もない驚きですよね、それを回収するときに身体の
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