長年使っていた計量カップがあっさりと壊れたのは暑い夏の日だった。ほんの少し前のことなのに随分前の出来事のようにも感じる。真夏のあの暑さを夏の終わりになるともう思い出せないのと同じことかもしれない。仲の良かった夫婦でも、きっかけすら思い出せないような些事をきっかけに、一瞬で巨大な裂け目が生じてしまうように、我が家の計量カップが不可逆的機能不全に陥ったのもほんの一瞬の出来事だった。その日一日は家族で涙にくれて、眠れぬ夜を過ごした。結果的に寝不足となった翌日にしっかり昼寝をしたのが職場だったということは必然とも言えるし偶然とも言える。世の中の出来事の大半は偶然とも言えるし必然とも言えるのだ。 小学生の息子を近所の高級100円ショップに派遣したのはそれから何日かたってからだった。「なんだいあれだけ悲しんでいたのにもう新しいのに乗り換えるのかい」という視線が突き刺さったが、計量カップのない生活はとっ
難病だという診断が下りるまでの10数年、わたしの病気は多くの医師に精神的なものだとして扱われてきた。酷いアトピーや花粉症、胃腸の不調や極端な思考力の低下、道に座り込んでしまうほどの目眩や関節の痛みを訴えても、すべて気にしすぎである、精神的な症状が落ち着いたら気にならなくなる、と言われてきた。アレルギーが酷くて、様々な物質に異常に敏感に反応するのも、そんなはずはない、と妄想だとあしらわれた。 今となってはすべて、副腎皮質ホルモンが分泌されていなかったためと説明が付くのだが、多くの自称科学的な人は、いとも簡単にわたしを精神的な病気であるとか、詐病と決めつけた。 しかし、いくつかの限られた血液検査をして、その結果異常が見つからないからといって、どうして精神的な問題と決めつけられるのだろう。その態度は果たして"科学的"なのだろうか。 弱った体に追い討ちをかけるように、わたしの周りの"科学的な"人々
平成17年に『食育基本法』が施行され、国民の心身の健康を支援するために「食育運動」が推進されることになった。子どもの頃からの食習慣が重要であるとされ、保育所や学校、家庭を中心に食育を進めるというものだ。 特に義務教育では、食育推進の中核的な役割を行う職種である栄養教諭という新たな資格が創設され、栄養士・管理栄養士が直接子どもに対して食育授業(担任との連携が必要)やアレルギーを持つ児童・生徒に対する食事指導などを行えるようになった。 しかし、現実に行われている子どもの食育の内容を見ると、全国的に統一されておらず、まったく根拠のない情報や、特定の主義主張に偏った情報が紛れ込んでいる。 このように「食育」が迷走してしまったのは、なぜだろうか? まずは、食育基本法の条文を見てみよう。 前文では、食育により身に付けるべき能力として『「食」に関して信頼できる情報に基づく適切な判断を行う能力』を挙げ、家
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