
エントリーの編集

エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント9件
- 注目コメント
- 新着コメント

注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています

- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
蘇我氏と物部氏の仏教抗争、日本書紀の説に難あり?:朝日新聞デジタル
大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿(おこし)と、導入(崇仏... 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿(おこし)と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った6世紀の崇仏論争。だが、実際は仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されている。 いわゆる崇仏論争(崇仏排仏論争)は2段階からなる。 「日本書紀」によれば、552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神のたたりを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀(まつ)っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守
2017/04/10 リンク