→紀伊國屋書店で購入 いささか誤解をまねく題名である。副題に「イスラーム文化の役割」とあるので、天文学とはいっても近代天文学の誕生にイスラム文化がどう影響したのかを論じた本だろうと察しがつくが、近代天文学についてふれているのは最初と最後の章だけである。本書は天文学という切口からアッバース朝イスラム帝国の王権と文化政策をさぐった本で、アッバース朝の本としては実におもしろく、一般書にはこうした内容の本は他にないのではないかと思う。 (イスラム天文学については『望遠鏡以前の天文学』の第8章が百科全書的にゆきとどいた説明をくわえている。本書はアッバース朝の文化政策に焦点を絞った内容なので、イスラム天文学全般が知りたかったら『望遠鏡以前の天文学』を読んだ方がいい。) ムハンマドの没後、イスラム共同体は「神の使徒の代理人」たるカリフが治めるようになるが、第四代カリフでムハンマドの娘婿のアリーが暗殺され
→紀伊國屋書店で購入 「アジテーター、ペイン」 トマス・ペインはアジテーターとしては一流の人物だが、政治思想はあまり高く評価されていない。日本だけでなく、アメリカ本国でもそうらしい。本書は、ペインの疾風怒濤のような生涯についてはそれほど詳しくないものの、彼の政治思想をどう評価できるかについて、鋭い視点を示している。 ペインは国家というものは必要悪にすぎず、市民は自由で平等な社会を望むものだという共和主義的な見解を強く抱いていた。個人はみずからの善を望むだけでなく、公共善も望むというのが、彼の理論の背景にある確信である。人々が社会の善を望むようになるためには、理性を働かせるだけでよいと考えるのだ。だからふつうの共和主義者であれば警戒するはずの商業についても、富や財産についても、共和主義と対立するものだとは考えない。 ペインは「商業は文明化および社会化を進める主要な力である」(p.80)と考え
→紀伊國屋書店で購入 「1960年から現在までにアメリカ白人社会に起こったこと:保守派からの声。」 アメリカの保守系シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ研究所」の研究員であるチャールズ・マレーの新刊。 マレーは「ベル・カーブ」という著作(リチャード・ハーンシュタインと共著)で人種によりIQの差があるという論理を展開し全米に議論を巻き起こした。テレビで多くのリベラル派論客たちがマレーの説は馬鹿げていると息巻いた。 そのマレーの新刊は、1960年から2010年までにアメリカ白人社会に起きた二極化を検証した本となっている。 マレーはこの間に生まれた「ニュー・アッパークラス」(富裕層のトップ5%を占める25歳以上の成人)は、国民のなかでも最も高いIQと収入を得て、特定の地域に住み、お互いに結婚をし、子供たちをトップクラスの大学に送り込んでいるという。 マレーは社会の動きをみるために「勤勉さ」
→紀伊國屋書店で購入 『アルシテクスト序説』にはじまるテクスト論三部作の第二作で、文学テクストの相互関係を論じている。ジュネットは文学テクストの関係を五つの類型に分類している。 1 相互テクスト性(intertextualité)引用、剽窃、暗示のように他のテクストの一部が逐語的に存在している場合(クリステヴァの間テクスト性と言葉は同じだが内容は異なる) 2 パラテクスト(paratexte)表題、副題、章題、序文、後書、前書、傍注、脚注、後注、エピグラフ、挿絵、帯、表紙等々、本文に付随するテクスト 3 メタテクスト性(métatextualité)引用することなしに他のテクストを批評したり注釈したりする場合 4 イペルテクスト/イポテクスト(hypertexte / hypotexte)後続テクストと先行テクストの関係 5 アルシテクスト性(architextualité)『アルシテクス
→紀伊國屋ウェブストアで購入 『カント全集』の第16巻で『自然地理学』をおさめる。 『自然地理学』とはカントがケーニヒスベルク大学の私講師となった翌年の1756年夏学期から事実上の引退をした1798年まで、実に43年間にわたって講義した科目である。1772年の冬学期からは対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の講義を同じ曜日と時間にはじめており、以後25年間にわたって冬学期は『人間学』、夏学期は『自然地理学』と二つの講義を交互におこなっていた。 『自然地理学』は前から読みたいと思っていた。理由は二つある。 まず『自然地理学』はカントが新時代の教養として自負していた科目であり、同時代的な評価も非常に高かったということ。カントが担当した中ではもっとも学生の集まる授業で、評判を聞きつけたケーニヒスベルクの上流人士も講筵に連なった。 講義の内容は学生が筆記したノートの写本でも流布し
→紀伊國屋ウェブストアで購入 カントの『自然地理学』と対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の概説本かと思って読んだら、そうではなかった。 本書の元になった本は『モラリストとしてのカントⅠ』という表題で、『人間学』などを材料に人間研究家(モラリスト)としてのカントを紹介しているが、なぜそんな人間観になったかという原因をカントの生涯にもとめており、伝記的な側面が大きい。 「あとがき」には「これまで「よい面」ばかり伝えられて来たのだから、一時的にこれくらいの引き下げ方をしなければ公平ではない」とあるが、実際本書はカントの「悪い面」ばかりをあげつらった観がある。池内紀の『カント先生の散歩』(以下『散歩』)のカントがケーニヒスベルクの上流人士の目に映った白カントだとするなら、本書は意地の悪い同業者から見た黒カントだろう。 カントには表面的なつきあいの友人は多かったが、真の友といえる
→紀伊國屋ウェブストアで購入 アジア・太平洋戦争に負けた日本の海外戦没者の遺骨収集と現地での慰霊の問題は、当然、日本が戦場とした国・地域との関係の下にある。だが、戦場となった国・地域が欧米豪の植民支配下にあったり、委任統治領にあったりしたため、現地社会を無視したなかでおこなわれることになった。 本書冒頭で取り上げられた小説『ビルマの竪琴』にかんしては、僧侶が竪琴で奏でることは破壊行為であること、日本とは違う上座仏教では墓葬・墓参に執着しないことなど、ビルマ文化にたいする著者の無知と無理解が、ビルマ研究者によって指摘されている。終戦直後に評価された想像の物語は、もはや現代では通用しない。 本書では、さらに1956年にビルマ方面で遺骨収集をおこなった団長美山要蔵が、昭和天皇に拝謁し「美談」報告をおこなったことを、つぎのように紹介している。「美山は「収集団」の活動を簡潔に述べたうえで、ビルマの大
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「”音楽家には国境がある”」 「音楽に国境はない」というのは真実だろうが、過去の歴史をひもとけば、「少なくとも、音楽家には国境がある」。これが、本書(中川右介著『国家と音楽家』七つ森書館、2013年)の重要なメッセージのひとつである。本書には、政治に翻弄された音楽家たち(フルトヴェングラー、カラヤン、トスカニーニ、カザルス、ショスタコーヴィチ、バーンスタイン、等々)がたくさん登場するが、「天下泰平」の世ならともかく、20世紀の激動の時代を生き抜いた音楽家たちの生涯を追うと、やはり「音楽家には国境がある」と言わざるを得ない。 著者はすでにこのテーマで何冊か本を書いているので、ヒトラー政権とフルトヴェングラーの微妙な関係、当時ナチ党員でありながらワーグナーのあるオペラの演奏上のミスでヒトラーに嫌われたカラヤンの話などをよく知っている読者も少なくないかもしれない。
→紀伊國屋書店で購入 「韓国の現代史を大づかみにするために」 社会学者の高原基彰です。今回からこの「書評空間」に私の担当欄を設けて頂けることになりました。 私は、「分かりやすくて内容の薄い本を何十冊速読するより、濃密で有益な情報のつまった本を1冊、時間をかけて読む方が、得るものははるかに大きい」と思っています。分野・新旧の別などあまり関係なく、そういう意味で私が「なるべく多くの人が読んだ方がいいんじゃないか」と思ったものを紹介したいと思います。よろしくお願いします。 今回は、著名な朝鮮史研究の歴史学者、B.カミングスによる『現代朝鮮の歴史』を取り上げたい。大部であり、値段も高い本である。しかし韓国や北朝鮮について、薄っぺらな本を何十冊読むよりも、本書を通読した方が、はるかに実りが大きいと断言したい。 カミングスは、韓国の知識人に絶大な支持を得るアメリカ人の歴史学者で、特に朝鮮戦争の研究でよ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く