戦時中の皇室取材は厳しく制限されていた。藤樫氏の著書によると、宮内省は秘密主義で記者会見は一切なし。行事の取材では、昭和天皇の姿が見られない別室に「軟禁」された。「(陸軍の演習で)全然見えない陛下のご統監ぶりの感激記事をデッチあげるのに、ずいぶん苦労した」とも明かす。記事は不敬にならないよう二重三重の敬語を並べ、書き出しは「畏(かしこ)くも」「恐れ多くも」、結びは「洩(も)れ承る」「恐懼(きょうく)感激」が決まり文句だったという。 新聞製作も特別扱いだった。皇室記事は普段と別の色の原稿用紙を使い、誤字・脱字をチェックする特別校閲係も置いた。 終戦後、「天皇」は頻繁に記事に登場する。しかし、多くは国体護持(天皇制維持)、戦争責任などの論争の対象としてだった。こうした天皇制を巡る議論を受け、毎日新聞は46年1月10日から6人の識者による連載「天皇制の解明」を始めた。あえて天皇制への反対論も示し