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思想とcritiqueに関するmn_krのブックマーク (10)

  • 小嶋ルミのシュークリーム

    NHK出版「」のページです。

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    mn_kr 2010/02/17
    システム論について深い討論
  • 「村上隆的なモノ」と「ジブリ的なもの」 - 現代美術室

    BLOG希有馬屋 わず嫌い王選手権 - livedoor Blog(ブログ) ジブリが嫌いなわけじゃないのです。 「ジブリ的なもの」が嫌なのです。 村上隆的なモノというと、伝わりやすい? で、その『ジブリ的なもの』の代表が 鈴木敏夫プロデューサーなのです。 ──いや、「なのでした」と、過去形にしていただきたい。 あのオッサンはそういうんじゃないねん。 そう私を覚醒させてくれたのがこのポッドキャスト 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』 この人は、「自分が面白いと思ったもの」を、 万人に受けるようパッケージングをしてるだけなのだと。 もっというと、詐欺なんですよ。 このひと、詐欺師なんです。 で、自分はその「詐欺の匂い」に反応してたんだなあ。 ポッドキャストの中で村上隆(←あ!)との対談で 鈴木「宮さんが歳とって作る映画が見たいんですよね。 フェリーニとか晩年ひどかったじゃないですか。 年取るとあ

    「村上隆的なモノ」と「ジブリ的なもの」 - 現代美術室
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    mn_kr 2009/11/01
    “ ジブリが嫌いなわけじゃないのです。 「ジブリ的なもの」が嫌なのです。”
  • asahi.com(朝日新聞社):思想をもっと「つまる」ものに 批評家・佐々木敦さん - 文化トピックス - 文化

    思想をもっと「つまる」ものに 批評家・佐々木敦さん2009年9月17日16時20分 佐々木敦(ささき・あつし)さん(45) 80年代からゼロ年代まで、この30年の思想地図の変容を追った近著『ニッポンの思想』(講談社現代新書)が好調だ。 現代に連なる転換点、とみるニューアカ現象。たどり着いた先は、市場主義が強まり、有力な論客の数も先細りになって、「つまらない」風景が広がる――。 「一読者として、思想をもっと『つまる』ようにしたい。そう思ったことが、深いところでは、執筆の動機でした」 思想のは初めてながら、フリーの物書きとして、20年以上のキャリアをもつ。アート系の映画館に勤めたあと、映画音楽小説の順に仕事の重心を移し、『絶対安全文芸批評』(INFASパブリケーションズ)など10冊を超す著書を発表してきた。 多彩な領域での活動は、ジャンル横断というより、テーマが「通底」し「貫通」した結果

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    mn_kr 2009/09/30
    “作家論、作品論に回帰していくんじゃないですか。構造の分析は限界にきている。頭のいい人ならだれでも言える『正解』じゃないところで、まだやれることはあると思う”|こういう物言いは不毛だと思うけれど。
  • スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド 1/8‐ニコニコ動画(ββ)

    まさかのジジェク。思想界の吉芸人ことスラヴォイ・ジジェクが、お得意の精神分析理論を駆使して新旧の名画を縦横無尽に批評していく。字幕はコツコツやっていきたいと思っているが、例によって挫折の可能性が高いので、あとは頼んだ。原題「THE PERVERT'S GUIDE TO CINEMA」Slavoj Zizek 次 sm4472735

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    mn_kr 2009/08/31
    出だしから期待度アクセル全開
  • 純粋スキゾ批判:Critique of Pure Schizo / kay shixima blog:ねじまき鳥あるいは分裂病と文学の終焉 - livedoor Blog(ブログ)

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    mn_kr 2009/04/14
    “中井久夫の「最終講義 分裂病私見」によれば、分裂病が責任だけは自分で引受けようとするのに対して、解離は葛藤の解消を優先するものであるとされる。ここに倫理的響きを聴き取ることができる”
  • 『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著、大浦康介訳(筑摩書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「<流><忘>○」 原題は「読んでいないについていかに語るか」。筑摩書房(あるいは訳者?)はこの原題に「堂々と」という副詞を付け加えた。3文字の追加が劇的な効果を生んでいる。編集者も自信があったのだろう、表紙カヴァーの「堂々と」の文字だけ赤くなっている。たしかに、うまい。じっさい、筆者もまたこの題名につられて買ってしまった。 帯もうまい----という言い方はしかし、すこし変かもしれなくて、というのは、裏表紙にかかっている帯に印刷されているのは書の目次そのままで、目次を帯の文章に使うのは出版界ではべつに珍しいことではないからだ。しかし、このにかぎって、帯に目次をそのまま持ってきたのには意味がある。 I 未読の諸段階 1 ぜんぜん読んだことのない 2 ざっと読んだことがある 3 人から聞いたことがある 4 読んだことはあるが忘れてしまった (中略) III

    『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール著、大浦康介訳(筑摩書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 表現のリポジトリ - 仮想算術の世界

    最近は『ユリイカ』の連載に使えるかなと思って、柄谷行人『隠喩としての建築』を読み直していました。まぁ古いなんですが、いまふうに言えば「ソシオフィジックス」の走りみたいな論文が収められていて、いろいろ考えさせられます。 たとえば、このには、クリストファー・アレグザンダーの「ツリー」と「セミ・ラティス」の区別が採用されていますが、これはいまふうに言えば、新聞やテレビに代表される垂直統合型のマスメディア=ツリー構造に対して、さまざまな素材を横断的に組み合わせながら随時異なる集合を組み立てていくニコニコ動画=セミ・ラティス構造の区別にも対応させることができる。つまり、一方の要素が他方の要素を完全に包摂してしまうのではなく(ツリー構造)、むしろある要素と別の要素の組み合わせが部分的に「オーヴァーラップ」し、かつそのアナログな重なり合いが無数の要素間で形成される(セミ・ラティス構造)、そういう多

  • 坂のある非風景 道は断崖と絶壁によって挟み撃ちにされている

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com わたしたちは、わたしたちに死を書き込むために言葉を選択したのである。この「言葉」という部分をシステムといいかえてみれば、これはちょうど、村上春樹のエルサレム賞受賞講演の中の「システム」を「記号」に置きかえてみよといった内田樹と同じことを、ただ逆向きに行っているだけである。内田樹の村上春樹への過大な評価は、読みかえの技術の妙にあったが、それを称えることは村上春樹の講演を称えることにはきっとならない。 そこで、僕たちひとりひとりはかけがえのない魂を内包した壊れやすい「卵」であり、その卵の側に立つという使命感と、それに敵対する壁としての<システム>の物語がはじまる。何が打倒されるべきなのか、システムである。何が守られる

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    mn_kr 2009/03/08
    村上春樹の卵/システムの譬喩の死角について。個人/システムという二分法は既に乗り越えられたのではなかったか。
  • 最近気になったものを抜書き - shinichiroinaba's blog

    不可能性の時代 (岩波新書) 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 191回この商品を含むブログ (169件) を見る 『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、分析・解釈されているいくつものゲーム小説を通覧することから直観できることは、まずは次のことである。すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。(196頁) たぶん

  • 坂のある非風景 見たといえば見た、ETV特集「吉本隆明 語る~沈黙から芸術まで~」

    隆明といえば、経済学としてよりも思想として、文学として読む『資論』といったものをすぐさま思い浮かべるし、それがマルクスへ、『資論』の真の姿への近道だろうことを、私はそれを読む前から「知っていたような気がする」。経済学を世界認識の方法として意識できているひとがどれほどいるのかわからないが、吉が語ることを、すでに知っているものとして受け止めるようになって、ずいぶんと長い年月が流れてしまった。 この講演にある痛々しさは、吉が老いたことが理由ではない。『共同幻想論』『心的現象論』といったマルクス、フロイトの二項を、『言語にとって美とはなにか』によって統合する、それが<芸術言語論>の主旨だったが、そうしてただひとつの道を歩んできただけだと語る吉は、当に、敗戦直後の、虚無を抱いた青年だった吉に還ろうとしているようにみえた。彼の『伊勢物語論』が映し出されたとき、その出発地点こそが到達地

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    mn_kr 2009/01/07
    “やはり歩み続け、その歩みを完遂しようとしているのだ。ただ自分の宿命を生きる、それだけのことが文学に何事かを標として残してしまうだろう”
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