BLOG希有馬屋 食わず嫌い王選手権 - livedoor Blog(ブログ) ジブリが嫌いなわけじゃないのです。 「ジブリ的なもの」が嫌なのです。 村上隆的なモノというと、伝わりやすい? で、その『ジブリ的なもの』の代表が 鈴木敏夫プロデューサーなのです。 ──いや、「なのでした」と、過去形にしていただきたい。 あのオッサンはそういうんじゃないねん。 そう私を覚醒させてくれたのがこのポッドキャスト 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』 この人は、「自分が面白いと思ったもの」を、 万人に受けるようパッケージングをしてるだけなのだと。 もっというと、詐欺なんですよ。 このひと、詐欺師なんです。 で、自分はその「詐欺の匂い」に反応してたんだなあ。 ポッドキャストの中で村上隆(←あ!)との対談で 鈴木「宮さんが歳とって作る映画が見たいんですよね。 フェリーニとか晩年ひどかったじゃないですか。 年取るとあ
思想をもっと「つまる」ものに 批評家・佐々木敦さん2009年9月17日16時20分 佐々木敦(ささき・あつし)さん(45) 80年代からゼロ年代まで、この30年の思想地図の変容を追った近著『ニッポンの思想』(講談社現代新書)が好調だ。 現代に連なる転換点、とみるニューアカ現象。たどり着いた先は、市場主義が強まり、有力な論客の数も先細りになって、「つまらない」風景が広がる――。 「一読者として、思想をもっと『つまる』ようにしたい。そう思ったことが、深いところでは、執筆の動機でした」 思想の本は初めてながら、フリーの物書きとして、20年以上のキャリアをもつ。アート系の映画館に勤めたあと、映画・音楽・小説の順に仕事の重心を移し、『絶対安全文芸批評』(INFASパブリケーションズ)など10冊を超す著書を発表してきた。 多彩な領域での活動は、ジャンル横断というより、テーマが「通底」し「貫通」した結果
→紀伊國屋書店で購入 「<流><忘>○」 原題は「読んでいない本についていかに語るか」。筑摩書房(あるいは訳者?)はこの原題に「堂々と」という副詞を付け加えた。3文字の追加が劇的な効果を生んでいる。編集者も自信があったのだろう、表紙カヴァーの「堂々と」の文字だけ赤くなっている。たしかに、うまい。じっさい、筆者もまたこの題名につられて買ってしまった。 帯もうまい----という言い方はしかし、すこし変かもしれなくて、というのは、裏表紙にかかっている帯に印刷されているのは本書の目次そのままで、目次を帯の文章に使うのは出版界ではべつに珍しいことではないからだ。しかし、この本にかぎって、帯に目次をそのまま持ってきたのには意味がある。 I 未読の諸段階 1 ぜんぜん読んだことのない本 2 ざっと読んだことがある本 3 人から聞いたことがある本 4 読んだことはあるが忘れてしまった本 (中略) III
最近は『ユリイカ』の連載に使えるかなと思って、柄谷行人『隠喩としての建築』を読み直していました。まぁ古い本なんですが、いまふうに言えば「ソシオフィジックス」の走りみたいな論文が収められていて、いろいろ考えさせられます。 たとえば、この本には、クリストファー・アレグザンダーの「ツリー」と「セミ・ラティス」の区別が採用されていますが、これはいまふうに言えば、新聞やテレビに代表される垂直統合型のマスメディア=ツリー構造に対して、さまざまな素材を横断的に組み合わせながら随時異なる集合を組み立てていくニコニコ動画=セミ・ラティス構造の区別にも対応させることができる。つまり、一方の要素が他方の要素を完全に包摂してしまうのではなく(ツリー構造)、むしろある要素と別の要素の組み合わせが部分的に「オーヴァーラップ」し、かつそのアナログな重なり合いが無数の要素間で形成される(セミ・ラティス構造)、そういう多
Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com わたしたちは、わたしたちに死を書き込むために言葉を選択したのである。この「言葉」という部分をシステムといいかえてみれば、これはちょうど、村上春樹のエルサレム賞受賞講演の中の「システム」を「記号」に置きかえてみよといった内田樹と同じことを、ただ逆向きに行っているだけである。内田樹の村上春樹への過大な評価は、読みかえの技術の妙にあったが、それを称えることは村上春樹の講演を称えることにはきっとならない。 そこで、僕たちひとりひとりはかけがえのない魂を内包した壊れやすい「卵」であり、その卵の側に立つという使命感と、それに敵対する壁としての<システム>の物語がはじまる。何が打倒されるべきなのか、システムである。何が守られる
不可能性の時代 (岩波新書) 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 191回この商品を含むブログ (169件) を見る 『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、分析・解釈されているいくつものゲームや小説を通覧することから直観できることは、まずは次のことである。すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。(196頁) たぶん
吉本隆明といえば、経済学としてよりも思想として、文学として読む『資本論』といったものをすぐさま思い浮かべるし、それがマルクスへ、『資本論』の真の姿への近道だろうことを、私はそれを読む前から「知っていたような気がする」。経済学を世界認識の方法として意識できているひとがどれほどいるのかわからないが、吉本が語ることを、すでに知っているものとして受け止めるようになって、ずいぶんと長い年月が流れてしまった。 この講演にある痛々しさは、吉本が老いたことが理由ではない。『共同幻想論』『心的現象論』といったマルクス、フロイトの二項を、『言語にとって美とはなにか』によって統合する、それが<芸術言語論>の主旨だったが、そうしてただひとつの道を歩んできただけだと語る吉本は、本当に、敗戦直後の、虚無を抱いた青年だった吉本に還ろうとしているようにみえた。彼の『伊勢物語論』が映し出されたとき、その出発地点こそが到達地
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