A本の表紙見返しの異国人物図は原本とは関係なく、『日本節用万歳蔵』から後補されたものか 。左の蝦夷地図は加藤肩吾系のもので、村上の「蝦夷諸島図」とは大きく異なる。「カラフト嶋一名キタイゾチ」とある点が注目される 『蝦夷島奇観』は、江戸幕府の役人・村上島之丞(秦檍丸・1760~1808)が当時のアイヌの習俗を忠実に描いた資料として知られています。村上は幕府の蝦夷地探索の一員として、1798(寛政10)年から数回にわたり北海道、国後、択捉を踏査しました。 寛政年間はロシアの脅威に対する北方警備が深刻化した時期で、アイヌに関するさまざまな情報も入ってきましたが、興味本位に扱ったものがほとんどでした。村上らは、アイヌは日本人の古い姿をよく留めており、その研究が日本自体の理解にとって大変重要だという考えから、アイヌの生活をていねいに観察し『蝦夷島奇観』『蝦夷見聞記』などを著しました。樺太を含む蝦夷図
アイヌと共に生きた男 ニール・ゴードン・マンロー [前編] 20世紀前半、日本でアイヌ人たちの保護に人生を捧げた 一人のスコットランド人がいた。 彼の名はニール・ゴードン・マンロー。 考古学への興味から来日するが、 アイヌ先住民との不思議な縁が彼のその後の運命を決した。 「アイヌの皆の様に葬ってくれるね」と言い残し 北海道の地に没したマンローの生涯を辿りながら、 彼がこれまで正当に評価されることなく 日本の近代史に埋もれていた理由なども、 マンロー生誕150周年を機に探ってみたい。 © Fosco Maraini 参考文献: 『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊、 『N.G.マンローと日本考古学』横浜市歴史博物館編纂ほか 2013年春、横浜市歴史博物館で、ある特別展が開かれた。タイトルは「N・G・マンローと日本考古学 ―横浜を掘った英国人学者」。ス
アイヌ料理(アイヌりょうり)は、アイヌ民族の伝統的な料理。ここではアイヌの食文化全般を解説する。 概説[編集] アイヌ民族の食文化は漁撈や狩猟で得られた鮭や鹿、山野の採集で得られたオオウバユリの鱗茎やドングリ、山菜、畑で栽培された雑穀やジャガイモ[1][2]などを素材とする。特徴としては、油脂をふんだんに使った味付けが挙げられる[3][4]。 調味料は塩のほか、魚や獣の脂肪(タラ、イワシ、ニシン、サメ、アザラシ、エゾシカ、ヒグマなどからとる)を用いた[5]。近世以降は味噌も使用された[6]。また、コンブや動物の骨、魚の焼き干しを使って出汁をとる文化をもっていた[7]。香辛料としては、ギョウジャニンニクやキハダの実、タネツケバナを利用した[4]。 食材の調達[編集] 狩猟[編集] ユㇰ(エゾシカ) 狩猟は盛夏〜晩夏を除いて1年の大半の時期に行われ、ユㇰ(yuk エゾシカ)、キムンカムイ(ki
北上市の八幡遺跡という村落跡から岩手県でははじめて馬を描いた土器がみつかった、このニュースはちょっと前からネットで流れていて、なんどかツイートもしているのですが、ずっと画像がありませんでした。それがようやく出ました。 奈良〜平安時代に東北を舞台にした「三十八年戦争」というのがあります。阿弖流為や坂上田村麻呂が活躍する戦いです。 東北の現地勢力の「蝦夷」は、イメージとして馬に乗っているわけです。 平泉も馬を献上するし、伊達政宗も東北の馬をいばる・・・東北といえば、馬の名産地。 でも、三内丸山遺跡の縄文人は馬に乗っていないです。 馬はもともと日本列島にはおらず、朝鮮半島から5世紀頃に渡来したと言われているので、九州から延々と人が放牧地を求めて移動してきて、「適地だ」となったのです。 古代の近畿で牧場があったのは淀川沿いで、渡来系の集落が多い場所。 関東で牧場があったのは群馬県で、渡来系の移住地
釧路の奥田幸子さん 「息遣い感じた」 釧路アイヌ語の会(合沢寛会長)の事務局長奥田幸子さん(63)が、江戸幕府が18世紀後期に初めて蝦夷地(えぞち)に調査隊を送った時に聞き取ったアッケシ(厚岸)の総首長イコトイと根室・ノッカマップの総首長ションコのアイヌ語を、ローマ字化、現代語訳した。奥田さんは「言葉から、イコトイやションコなど歴史上の人物の息遣いが感じられた」と話している。(小野孝子) 奥田さんが現代語訳したのは、調査の記録文書である「蝦夷地一件」(二)に登場するイコトイとションコが幕府側に語った言葉。中でも注目されるのは、イコトイが幕府の調査隊の宿泊所をひそかに訪れて話した内容だ。 イコトイは「松前藩の役人と運上屋(商人)が、『幕府にはロシア人と交易していることを話すな、話せば首を切り落とす』と言った」と、口止めされていることを告げた。 背景には、松前藩が、幕府による鎖国政策下
<訃報>熊谷たみ子さん60歳=アイヌ民族のジャズ歌手 (毎日新聞) <訃報>熊谷たみ子さん60歳=アイヌ民族のジャズ歌手 ジャズ・ヴォーカリストの熊谷たみ子さんが亡くなりました。 熊谷たみ子さんは、20歳で歌謡曲の歌手としてデビューしたものの売れずに渡米。帰国後に結婚し、子どもを育てながらジャズ・ヴォーカリストとして歌い続けていたそうです。2009年に大腸がんが再発したことをきっかけに、自分がアイヌ民族であることを公表。 「それまでアイヌと公表していなかった。でも、限られた命と分かり自分自身に嘘をついているような気がしてね」(引用:「毎日新聞」2011年9月15日/明珍美紀) 以降、「アメイジング・グレイス」などをアイヌ語で歌いながら活動を続けていました。 ジャズは出自がレイス・ミュージック(1920 年代から 40 年代にかけての黒人大衆音楽をさす総称。初期のリズム・アンド・ブルースまで
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