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ブックマーク / voleurknkn.hatenadiary.org (2)

  • 空間、時間、リズム - 生きてみた感想

    昨日の日記では、『ブロック・パーティー』という映画に関して空間の可塑性という観点から簡単な感想を書きました。ということでせっかくなので、「そもそも空間って何?」ということに関して簡単な覚書を残しておくことにします。 ※ その筋の世界で「空間論的転回」なるものが叫ばれ始めたのは90年代のことですが、その先触れとなったのがエドワード・ソジャの『ポストモダン地理学』でした。そこでソジャは、人文知を支配している時間パラダイムに抗して、いまこそ空間の問いを提起する必要があると述べたのでした。それはたんに地理学ローカルの話ではなく、まさしく哲学の核心をなすものとして空間の問いを捉えなおす必要がある、というのがソジャの主張でした。 ソジャの『ポストモダン地理学』が出版されたのは1989年。同じく地理学者であるデイヴィッド・ハーヴェイの『ポストモダニティの条件』が出版されたのと同年であり、このあたりから地

    空間、時間、リズム - 生きてみた感想
    yomayoma
    yomayoma 2007/07/26
    「空間論的転回」
  • ラカン、ソシュール、デリダ - 生きてみた感想

    この文章の目的は、ジャック・ラカンとジャック・デリダの思想的関係を、あいだにソシュールを挟むことでちょっと考察してみよう、というものです。それに際して、ジョアン・コプチェクの『わたしの欲望を読みなさい』の三章「切り刻むこと」における議論を参照します。目論まれているのはごくごくささやかなことで、両者を鮮やかに架橋してみせようなどという大それたことではなく、両者の争点の違いと、またその違いを考える際に避けることのできないであろう課題とをわずかにでも浮き彫りにしようとすることだけが目指されます。ちなみにラカンとデリダに関しては、中野昌宏氏の『貨幣と精神』についての感想を書いた際にも少し触れました。(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060413#p1参照)。はい、ここまでが枕。 ● シニフィアンと恣意性 ソシュールと言えば、言語を差異の体系として捉えなおした人

    ラカン、ソシュール、デリダ - 生きてみた感想
    yomayoma
    yomayoma 2007/02/06
    ラカンとデリダの思想的関係をそれぞれのソシュール批判からみる
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