“ 小さな王妃様 ” と呼ばれた愛妾 オデット・ド・シャンディベール 1390~1425/愛妾 1407~1422 オデットは、発作がおこると王妃イザベルを恐れるようになったシャルル6世を 王妃に変わって(いろんな意味で)お世話するために選ばれた女性でした。 父親(兄説あり)とされるギィなる人物は、王妃イザベルの従者と シャルル6世のかまど番との2名の記録が残っていますが どちらもブルゴーニュ公の忠実な徒党でした。 ブルゴーニュ公ジャンは、王がブルゴーニュ派に加担するよう説得しろと オデットに頼んだと言われています。 シャルル6世の弟で、敵でもあり、その上王妃の愛人だったオルレアン公ルイが 亡くなった1407年頃から王の愛妾になりました。 その年のうちにマルグリートという娘が生まれています。 精神病の王に打ちのめされ、恐れ、嫌って不貞をはたらいていた王妃イザベルは オデットが自分の代わりを
激動のヨーロッパにおいておよそ八百五十年の歴史を刻み、後世に様々な遺産を遺した一大帝国である神聖ローマ帝国の 衣鉢を継ぎ、ナポレオンの時代からヨーロッパにその歴史を築いて旧体制の象徴として一目置かれながらも、僅か百十数年で その歴史に幕を降ろしたハプスブルク家の帝国・オーストリアの歴代の皇帝について語ろう! ,,-'二ニ,゙'''-、 r― 、 ィ-i,,,,`'i r― 、 ./ .ヽ ゙l i. フ ノ ヽ、_ノ´ | ,i'゙ .ヽ...ノ .l ! ./ .゙''''''''''''"´ 'ヽ _ r‐、 .r-、 | |__ / ./ / ./''''''''l ./゙゙゙゙゙´ ヾヽ,ヽ ゙ヽ .i ゝ | i- ゙̄'''‐、 / / 〈r'" ./ l i,,,ノ ゙ー'" !
評伝を買っておいてなんですが、マリー・テレーズが生きた時代(フランス革命前~王政復古)に興味があり、「アントワネットの娘」に興味があっても、マリー・テレーズ本人に興味があるわけではないのだなぁ、と。いや、微妙だな、「ヨーゼフの甥」に興味があるけど、フランツ個人に興味が無い、というわけではないので。マリー・アントワネットはハプスブルク家の人間ですが、マリー・テレーズはブルボン家の人間だから、という点において温度差があるような気がします。 この本の一番の価値は、フランス革命以降、共和国時代、帝政時代、王政復古、七月革命とその後、という時代の流れをブルボン家に焦点をあてて追っているという点だと思います。世界史的、フランス史的な意味ではあまり意味のないことなので、取り上げられることの少ない部分です。例えば、王政復古前の「ルイ18世」とその一行がヨーロッパ中を放浪した経緯、退位させられたシャルル10
弟はいましたが、末娘という表現が多いので誤解されたと思います。 ヨーゼフが追放したのは姉のマリア・アンナですが、彼女はもともとせむしで結婚できないため役に立たないとして母から冷遇され、また聡明で世継ぎである弟より優秀だったといわれているのでヨーゼフと側近にとっては目障りな存在で、弟の嫁と不仲だったのが決定的になって追放されました。 マリア・クリスティーネは母に愛されて唯一恋愛結婚を許され、夫に財産がないためマリア・テレジアが高官にしてあげるなど他の兄弟とは明らかに差別されて優遇されたので嫌われたんです。 誰が一番幸せか、というのは正直難しい。 ヨーゼフは妻を愛していたけどそれは片思いで妻に愛されず、しかもすぐに先立たれてしまっているし、マリア・アンナは病気で結婚できず身体を見られるのを辛く思い(誰も笑わなかったという理由で入る修道院を決めたほど)、賢すぎるからと弟の側近に嫌な顔をされる。
華やかな一家の陰で生きた皇女 フランツ1世皇女 マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ 1738~1789 フランツ1世とマリア・テレジアに16人のお子さんが生まれたのは有名なお話し。 皇女は11人で、有名なのはなんと言っても十一女のフランス王ルイ16世妃 マリア・アントニア(マリー・アントワネット)ですよね。 さて、他の皇女の皆さんはどんな人生を送られたんでしょうか? 長女のマリア・エリーザベトは3歳で亡くなっています。 マリア・アンナは次女で、宮廷ではマリアンネと呼ばれていました。 マリアンネはとても知的な女性でした。 でも、詳しいことは不明なんですけど(脊椎カリエス説あり) 身体的にちょっと悪いところがありました。 最初の縁談が破談になってからはお妃候補にあげられることがありませんでした。 皇子誕生を待ち望む中生まれてきた二人目の皇女で、すぐに皇子ヨーゼフ(2世)が生まれ 病弱だった
→紀伊國屋書店で購入 『美の歴史』の姉妹編である。造本もレイアウトも『美の歴史』を踏襲した画集・詞華集となっているが、ひとつ異なる点がある。本文の活字が一回り小さいのだ。『美の歴史』は 1行33字だったが、こちらは 1行に36字詰めこんでいる。あてずっぽうだが『美の歴史』より文字量が二割か三割多いようである。 なぜ『醜の歴史』の方が文字が多いのだろう。一つ言えるのは「美」は「美」単独で語れるが、「醜」の方は単に「醜い」だけでは本として成立しないことがある。虫の好かないものも巧みに模倣されれば美となるというアリストテレスの言葉が序文に引かれているように、本書があつかう「醜」は美的対象に高められた「醜」なのだ。 もう一つ、幸福な家庭は似たりよったりだが、不幸な家庭はそれぞれ違うと書いた作家がいたが、「美」と「醜」では「醜」の方がはるかに多様なこと。本書を開けば歪んだり、崩れたり、責められたり、
義理の母がチョー有名! ルイ12世王女 レネー・ド・フランス フェラーラ公エルコレ2世妃 1510~1574 イタリア支配を夢見ていたシャルル8世は若くして亡くなりました。 王妃アンヌ・ド・ブルターニュは7回妊娠しましたが、皆死産や流産 あるいは幼くして亡くなりました。 王女は3人ですが、お名前がついたのは末子のアンヌだけです。 アンヌ・ド・ブルターニュが再婚したのがルイ12世です。 ルイ12世は、ルイ11世王女ジャンヌと結婚していましたが、無理くり離婚して再婚しました。 ジャンヌとの間にお子様はいません。 アンヌ・ド・ブルターニュはまたまた9回妊娠しましたが、成長したのは王女二人でした。 長女クロードはフランソワ1世妃になります。 アンヌ・ド・ブルターニュは自分の領地であるブルターニュの自治を守るため 日々戦っていまして、ブルターニュをレネーに譲ろうと考えていましたが ルイ12世が承諾し
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