『蘆花生誕百三十年記念講演会「芦花の偉大さ」』は、世田谷文学館で1998年10月10日に行われた出久根達郎氏の講演会「芦花の偉大さ」を文章化した講演記録です。 世田谷区には蘆花恒春園という、徳富蘆花の住まい周辺を公園にしたところがあるんですね。それにちなんで、蘆花恒春園に近い粕谷図書館には徳富蘆花コーナーがあり、この講演記録もそこで所蔵しています。世田谷区立図書館で同じ講演記録を3冊所蔵しているのですが、3冊とも粕谷図書館の所蔵になっていますね。 この講演記録は徳富蘆花を読んだことがない人にお薦め。私自身、徳富蘆花を読んだことがないどころか、芦花公園の「芦花」が徳富蘆花のことだということさえ知らなかった状態で読んだのですが、徳富蘆花がぐっと身近になる上に、出久根達郎自身も話が上手で、もし講演会などを聞ける機会があったら聞いてみたいと思うくらい。 まず、徳富蘆花の代表作「不如帰」をつまらない
上州(じょうしゅう)伊香保千明(いかほちぎら)の三階の障子(しょうじ)開きて、夕景色(ゆうげしき)をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷(まげ)に結いて、草色の紐(ひも)つけし小紋縮緬(こもんちりめん)の被布(ひふ)を着たり。 色白の細面(ほそおもて)、眉(まゆ)の間(あわい)ややせまりて、頬(ほお)のあたりの肉寒げなるが、疵(きず)といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりとしおらしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞(かすみ)の春に蝴蝶(こちょう)と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕やみにほのかににおう月見草、と品定めもしつべき婦人。 春の日脚(ひあし)の西に傾(かたぶ)きて、遠くは日光、足尾(あしお)、越後境(えちござかい)の山々、近くは、小野子(おのこ)、子持(こもち)、赤城(あかぎ)の峰々、入り日を浴びて花やかに夕ばえすれば、つい
1871(明治4)年の冬、欧米視察の岩倉具視大使一行とともに、留学生58人が横浜港を出発した。この留学生58人のなかに、将来の女子教育にそなえて、当時7歳に満たなかった津田梅子ら女性5名がふくまれていた。男子留学生の場合はできるだけ迅速に必要な専門知識や技術を吸収させ、帰国後にそれを活用するのが目的であったが、女子の場合は、7歳から14歳の少女に対し、気長に10年間の西洋流の教育を受けさせようとした一種の培養実験であった。この国策としての留学を決めた北海道開拓次官であった黒田清隆がヨ-ロッパ各国を回った際に、アメリカの女性の地位が高く、環境に恵まれていたことに深く心を打たれたからというのが定説になっているようだ。しかし、最年長の14歳の2人は健康上の理由で翌年帰国している。10年経った1881(明治14)年、永井繁子が帰国し、翌年の1882年に津田梅子と山川捨松が帰国した。留学の成果はとい
津田塾大学と読売新聞立川支局の共催による連続市民講座「津田梅子から110年―グローバルに、そしてローカルに生きる―」の第1回が18日、津田塾大小平キャンパスで開かれた。今回は飯野正子学長による特別講演「津田梅子とアメリカ―『女子英学塾』創設の背景」。創立者・津田梅子がアメリカで学んだもの、梅子が日本の女子教育や女性の生き方に与えた影響など、講演の要旨を紹介する。 ■不思議な運命 津田梅子は1871年、6歳で渡米します。自分で決心したのではないこの渡米を、彼女は「不思議な運命」と呼びました。この留学は、北海道開拓使の立案で、新天地の開拓に必要な人材は教育が大切で、その教育は母親の資質によって決まるという考えに基づくものです。政府の募集に対し、異国の地に娘を送ろうと思う親はおらず、結局、政府周辺の人々からの推薦により、13歳から6歳まで5人の少女が集められます。梅子の留学を決めた父親、津田仙は
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "母性保護論争" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年3月) 母性保護論争(ぼせいほごろんそう)は、1918年から1919年にかけて、働く女性と子育てについて繰り広げられた論争。女性の社会的、経済的地位の向上の方法論をめぐる与謝野晶子と平塚らいてうの議論から始まり、のちに山川菊栄、山田わかが合流して繰り広げられた。 平塚らいてうは、国家は母性を保護し、妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべきと「母性中心主義」を唱えた。 それに対し、与謝野晶子は国家による母性保護を否定。妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚
当ブログはまとめの更新を停止しています >更新停止のおしらせ 現在は簡単な記事を不定期に書き、更新されていない時にでてしまう広告を出ないようにしております 31 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 01:10:18.27 ID:9s6pnWYKP [1/4] 【栃木】2015年の大河ドラマに「徳川家康」を 知事、日光市長らがNHK会長に要望書を手渡す 26 名前:名無しさん@13周年 [sage] :2013/07/25(木) 23:34:51.71 ID:uZi9fGO70 ▼ジョン万次郎やれよ。こいつの人生は凄いぞ 土佐の漁民として少年時代を過ごす。ある日、漁に出たときに船が台風に巻き込まれ仲間と4人と漂流してしまう。 ↓ 小さな船は運良く太平洋の孤島へ流れ着くが無人島。そこで雨水を飲み、鳥の卵を食べ、数ヶ月を生き延びた。 ↓ 幸運なことに、アメリカの捕鯨
会津藩はどうして転封先に斗南藩を選んだのでしょう? 戊辰戦争に敗北した会津藩は極寒の斗南藩へ転封となり、飢えと寒さで多数の死者を出すこととなりました。 てっきり戦後処理を担当した長州藩が問答無用で斗南送りにしたと思っていたのですが、実は転封先として猪苗代と斗南の二箇所を提示され、会津藩は自ら斗南藩を選択したのだという事を知りました。 旧領の一部である猪苗代と会津より北の新天地である斗南。 自分なら間違いなく猪苗代を選ぶのですが、何故会津藩はここより寒くて行った事無い場所に自ら引っ越したのでしょうか。旧領に留まると笑いものになるから?ぐらいしか思いつきません。それを差し引いても斗南は無いだろうという気がします。 事情に詳しい方、宜しく教示願います。 分かりにくい質問だと思ったので、詳しく説明頂けて嬉しい限りです。 「領民を連れて行こうとした」という話にはびっくりです。転封するとき家臣はともか
熊本バンド(くまもとバンド)は、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のこと[1]。直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いた。 これは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つである[2]。花岡山バンドともいう。花岡山山頂には、熊本バンド結成の地として、昭和40年に記念碑が建てられた。これは、奉教の碑と呼ばれている。なお、毎年1月30日には、熊本バンド結成を記念して記念早天祈祷会が開かれている。 熊本洋学校の教師L.L.ジェーンズ 熊本バンドが結成された花岡山 日本組合基督教会の
2023年08月31日00:00 【衝撃】文系学生の8割が間違えた面接問題wwwww→…お前ら解けるか? 過去のおすすめ記事の再掲です 1 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2013/08/01(木) 22:05:05.63 ID:1Xk2v351i 【ルール】 (1) 教室には「あなた、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん」 という5人の学生とくじ箱があります。 (2) くじ箱の中には「1、2、4、8、16」の5枚の紙が入っています。 箱の中身は外からは見えません。 (3) 5人が同時にくじを引きます。ゲーム終了後、 学生は自分の数字と同額の現金が貰えます(数字が4なら4万円)。 (4) 全員が自分の数字を確認し終えた後、希望者は自分のくじを箱に戻します。 戻さなくてもいいし、戻すフリをするだけでも構いません。 (5) 希望者全員がくじを箱に戻し終えた後、 くじ
同志社英学校の開校で順風満帆に進む襄の夢…のはずでしたが、 熊本バンドの登場や京都府との折衝など問題が次々に発生します 熊本バンドの同志社入学 熊本バンドの結成 そのころ、九州・熊本県に熊本洋学校という学校がありました。明治4年(1871年)に熊本藩の実権を握った実学党(じつがくとう)政権が創設したもので、西洋の学問を導入し、アメリカからリロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)という陸軍の軍人を呼んで講師とします。 開校から3年後、ジェーンズは毎週土曜に自宅で希望する生徒に対して聖書を教えるようになりました。この参加者の中からキリスト教を信奉する生徒が続出し、明治9年(1876年)、生徒35名が熊本の花岡山(はなおかやま)で集会を開きます。そこで彼らは一致協力してキリスト教信仰を守り、キリスト教によって日本を導こうという奉教趣旨書に署名して誓約したのです。(
俺「マスコミがああやって煽るから、リスクが過大評価されるんだよ」 女「でも最近変な人が多いと思うよ。だから鍵はちゃんと締めてね(この間鍵かけ忘れてたから念をおして言っとこう)」 俺「そうかなぁ、変な人は昔から居るよ。それに実家なんて留守以外で鍵締めてたことないけど平気だったよ」 女「女の子は、鍵が締まってないと不安なんだよ(てめーの実家の話とか何の関係があんだ、実際に人が勝手に入ってきたら嫌だってんのに)」 俺「不安なのは分かるよ。だから鍵は締めるけど、そんなに怖がる程リスクは高くないと思うなぁ」 女「怖いよ。変な人が入って来るかもしれないじゃん(リスクの話なんかしてねーよ、その後の話だよ、もし入られたら嫌だから閉めときたいんだよ)」 俺「危ない人が部屋に入って来ることって確率的には交通事故より少ないんじゃない?」 女「でもそれで私が変な人に襲われたら嫌でしょ?(なんで急に交通事故の話がで
これは並べてみるとちょっと凄いな…と思ったので、メモ。 あ、決して大河ドラマの批判ではありません。 史実の話ですから。笑 あらすじと犯人のネタバレ さんのサイトから、引用させていただきます。 『八重の桜』関連のエピソードは、こちら↓にあります。 http://netabare1.blog137.fc2.com/blog-entry-2023.html 内容のいくつかは、同志社の特設サイトやヒストリアなどでもやってました。 キリスト教会公認ブログだそうです。 ここから引用しているので、史実を調べるときは原本を検証してくださいね。 事実との違いがあれば、ソースをご指摘ください。 以下、新島八重(山本八重)さんの怖いエピをいくつか抜粋。 --- ”新島八重は「臆病者!臆病者!お前のような臆病者には教えぬ」と罵倒すると、伊東悌次郎は「次は目を閉じない」と言い、再び銃を構える。” ■山本八重と伊東
1885年兄覚馬の後妻に不祥事が生じた。(具体的内容分からない) これからはQ翁の推測で述べてみる。 会津には、山本覚馬の本妻うらが取り残されていた。何故京都に呼び寄せなかったのだろうか。 姑にあたる佐久が、優秀すぎる女性であったからではないかと思う。 この状態を考えても、姑と嫁の関係は円満とはいかなかったのではないかと思う。本妻 うらは、自ら姑と一緒に京都に行くことを拒否したのではないかと思う。 佐久は孫娘(八重の姪)を京都に連れて行っている。 京都で、覚馬は後妻、時恵を貰う。しかし、覚馬は、京都府の要職について、実に多忙な毎日を送るようになる。 そして目が悪くなり、脚も不自由になると述べてある。体重が80㎏以上あったというが年齢的にみてもどうも白内障ではなく、今でいう糖尿病ではないかとQ翁は疑っている。 当時糖尿病の知識は殆ど持ち合わせていなかったのではいかと思う。 それでも当時の日本
福本武久によるエッセイ、随筆、雑文などをWEB版に再編集して載録しました。発表した時期や媒体にとらわれることなく、テーマ別のブロックにまとめてあります。 新聞、雑誌などの媒体に発表したエッセイ作品は、ほかにも、たくさんありますが、散逸しているものも多く、とりあえず掲載紙が手もとにあるもの、さらにはパソコンのファイルにのこっているものから、順次にアップロードしてゆきます。 ●近代京都の先覚者は会津うまれ 私は現在、埼玉県の所沢市にすんでいますが、京都にうまれそだち、三十数年間というもの、京都をはなれたことのなかった人間です。会津とは縁もゆかりもない人間が会津までや′つてきて、会津人の山本覚馬と八重のお話をしようとしている。この会津人の兄妹について、いくつかの著作がありますが、あらためてかんがえますと、いかにも、おこがましい。しかも今年は山本覚馬にとって永眠一〇〇周年、八重にとって永眠六〇周年
県観光連盟主催、県観光振興課後援「ふるさと寺子屋塾」熊本の歴史、文化を語り、知り、学び、伝えることを目的に毎月開催。県観光連盟発行「くまもとの旅」をテキストに、それぞれのテーマに沿った内容で、権威ある講師の先生を招き教授していただいています。 今月のテーマは、「徳富蘇峰・蘆花兄弟」です。 徳富蘇峰は、日本近代の言論界を代表するジャーナリスト。その弟の蘆花は『不如帰』や『みみずのたはごと』などの作品で、多くの人々に愛されている明治の文豪です。水俣出身の二人は影響を与えながら、多くの業績を残しました。徳富兄弟の軌跡(特に蘆花を中心に)について、徳富記念館館長の中島正雄館長にお話頂きました。その要旨を御紹介いたします。 トルストイを訪ねた徳富兄弟 平成三年、ソ連のゴルバチョフ大統領が来日して国会で演説したとき、徳富蘆花がトルストイに会うためにロシアに行った話をしました。 明治三九年、エルサレムを
昨日徳冨蘆花の話が出たので。 と言っても蘆花について大して知らないので、まあ適当に流して下され。 この人の本、暗いよね…(第一声がそれか) いや、本当にそういうイメージしか無いの。ごめん。笑。 蘆花の作品の中には『灰燼』という凄く短い小説があって、それが西南戦争の話になります。 丁度昨日まで書いていた可愛嶽突囲の所から始まる。 薩軍メンバーの話なのかと言われたらそれは違いまして、家族から薩軍に参加した兵士を出した一家が崩壊する話になります。 本当にそれだけ。 なんというか、まあ救い難い。 代表作のひとつは『不如帰』ですが、このモデルが大山巌の娘信子になります。 大山信子は鬼県令と呼ばれた三島通庸の長男と結婚したのですが、結核に罹り離縁されてしまう。 大山巌、山川捨松夫妻はこれを非常に憤ったそうで、信子を家に戻し、特に捨松夫人が献身的に看病したそうです。 しかし残念ながら信子さんは20才程で
徳冨健次郎と『黒い眼と茶色の目』 明治から大正にかけて活躍した作家の一人に、徳冨健次郎(一八六八~一九二七)がいます。彼は蘆花というペンネームで知られていますが、そのペンネームを使っていたのは一八八五年から一九〇六年までの約二十一年間のことで、今日お話しする作品、『黒い眼と茶色の目』を刊行した一九一四年にはもう蘆花を用いず、本名の徳冨健次郎で発表していました。彼の兄が徳富猪一郎(一八六三~一九五七)、すなわち徳富蘇峰という有名なジャーナリストであり、思想家であり、歴史家でした。Encyclopaedia Britannica という百科事典があります。日本で『大英百科事典』と呼んでいます。この世界的な百科事典に、徳富蘇峰は項目として載っていますが、弟の健次郎は載っていません。いな、猪一郎、健次郎兄弟の先生であった新島襄ですら、項目としては載っていないのです。新島は偉大な教育家でありましたけ
幕末の会津藩に生まれ、会津戦争では鶴ヶ城の籠城戦に参加した山川咲子。岩倉具視の欧米使節団に随行し、日本初の女子留学生として足かけ12年間をアメリカで過ごします。渡米にあたり、名前を山川捨松と変え、帰国後、薩摩出身の軍人・大山巌の妻となり、大山捨松となります。社交界ではアメリカ仕込みのマナーとホステスぶりで「鹿鳴館の花」と呼ばれます。捨松の曾孫である久野明子さんが、アメリカに残されていた捨松の手紙を中心に、曾祖母の生涯をたどった伝記『鹿鳴館の貴婦人、大山捨松-日本初の女子留学生』から、大山捨松の生涯を追ってみたいと思います。 幼年時代 捨松は幼名を「咲子」といい、会津藩家老・山川家の末娘として生まれました。鶴ヶ城に立て籠もった際、(数えで)8歳でしたが、籠城戦に参加し、蔵から鉛の玉を運びだし、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運び込むなどして活躍します。会津藩の降伏後、山川家は、再興を許された
明治元年(1868年)9月23日、鶴ケ城(若松城)に籠城していた会津藩が降伏します。旧幕府勢力はなおも抵抗を続けますが、明治2年(1869年)5月に、箱館の五稜郭に立てこもっていた榎本武揚らが降伏しました。戊辰戦争が終結し、明治維新が成し遂げられます。後に会津松平家は再興を許され、明治3年(1870年)、津軽の地で斗南藩として再出発を計ります。が、食料不足に苦しみ大量の餓死者を出すなど、塗炭の苦しみを舐めました。 会津藩藩校・日新館の教授で砲術家の山本覚馬は、文久2年(1862年)、京都守護職に就任した藩主・松平容保(かたもり)に随行し、上洛します。以後、覚馬は再び会津の地を踏むことはありませんでしたが、元治元年(1864年)、薩摩藩と組んで長州藩を京都から排除した禁門の変では、砲兵隊を率いて活躍します。しかし、破片や煤煙による負傷で目を痛めたといわれ、失明していきます。慶応4年(1868
新島襄を語るとき、いつも決まって登場するエピソードがあります。 〈自責の杖〉事件です。新島襄に関する著作を多く出版している 「福本武久」氏のサイト『新島襄と同志社』から転載させていただきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治13年(1880)の春のことであった。 当時、2年生は入学月のちがいから上級、下級の二組に別れていた。 両クラスとも少人数だったので、教師会が合併させようとしたのが 事件の発端だった。上級組は学校側の決定に不満をもち、全員が 無届け欠席してしまった。無断欠席は明らかに校則違反であった。 5年生から校則違反の処分をせまられて、学校側は頭をかかえて しまった。新島襄は思い悩んだすえに、ある朝の礼拝のあと、 杖をもって学生の前に現われた。 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責
このページは、NHKの大河ドラマ「八重の桜」のモデルとなる山本八重(新島八重)の生涯のあらすじとネタバレを実話を交えて紹介するページです。 目次の順番に読んでいくと、山本八重(新島八重)の実話のあらすじが分かるようになっています。 当ブログがキリスト教の教会から公認されました。詳しくは「キリスト教の教会も認めた実話「新島八重の桜」」をご覧ください。 注釈:西暦が採用されたのは明治6年のため、一般的には明治6年より以前は旧暦で表記するが、旧暦には閏月があるため、年月日については全て西暦としている。 ■実話「山本八重の桜-会津編」のあらすじとネタバレ 山本八重の誕生と家族 山本八重と日新館と什の掟 山本八重と幼なじみの日向ユキ 山本覚馬と林権助のあらすじ 樋口うらと川崎正之助のあらすじとネタバレ 松平容保が京都守護職に就任した理由のネタバレ 禁門の変-山本覚馬が失明した理由のネタバレ 山本八重
NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる新島八重(山本八重)の生涯をあらすじとネタバレで紹介する「実話-新島八重の桜」の京都編「新島八重は借金王」です。 このページは「実話-新島八重と松本五平の約束のあらすじとネタバレ」からの続きです。 実話「新島八重の桜」の目次は『実話「新島八重の桜」のあらすじとネタバレ』をご覧ください。 ■新島八重は借金王 新島襄は倹約家だったが、妻の新島八重は浪費家で金使いが荒いため、借金を背負っていた。だから、新島八重は借金王と揶揄されることがある。 新島襄は家族のために各地で不動産を所有していたのだが、新島襄の死後、新島八重が全て食いつぶしたうえ、新島八重は同志社に借金までしていた。 夫の新島襄は質素倹約を旨として生活していたが、妻の新島八重は舶来品が大好きで、ハイヒールや帽子や服などにお金を使っていた。 また、新島八重が奇妙奇天烈な着物を1夏に20着も買い込
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