本を書きたいなら、机の前から離れてみる さて、小説を書くか、エッセイを書こうかと意を決したとき、あなたならどうしますか? ここから一歩も動くまいとかまえて、パソコンの画面や原稿用紙を睨み、どっかと腰を据える──そんなイメージはありませんか? 駆け出しの作家というと、苦行僧さながら、無我なのかウツロなのかわからない顔をして指を動かしてみては、ときおり天井を仰いで嘆息し、それを3、4回繰り返したあげく、きょうはどうも調子が出ないな……と苦笑いするか、おれなんかダメだ作家になんかなれるわけない……と肩を落とす、というステレオタイプのイメージがありますよね。さらにいえば、そのうち夕暮れが迫り、切なさもちょっとつのってくると、酒をちびりちびりやりはじめて……というような。どうも現代日本で「文学」というと、太宰治病から逃れられず、自己憐憫もまた“小説家のひとつの仕事”と捉えられている気配が、いまだに一
ミステリと言う勿れは読んだことがある人とない人で感想がわかれます。 読んだことない人とか、「ネタにするために流し読みしただけの人」は、通称「ポリコレアフロ」こと、主人公の久能整の話しかしません。 読んだとしても8巻の答え合わせ前に読むのをやめてしまうと、整がどういうキャラかよく分からなくて「読んだけどやっぱりポリコレアフロじゃん」みたいなことを言うかもしれません。 でも、そこで読むのやめたらもったいないと思うんですよね。 この子、ちゃんとキャラを理解していったら「ポリコレどころかむしろアンチポリコレ」なことがわかって楽しいですよ。 久能整は精神年齢が幼稚だし、嫌いな人に対してバリバリに差別発言はきます。全然ポリコレじゃないんですよ。 その場その場で議論で勝てそうな屁理屈を持ち出してきて、それがポリコレっぽい発言になることが多いだけです。 基本的には彼の言ってることってクソガキの戯言にすぎま
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