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  • 世界の戦争・歴史ブログ ブランデンブルクの奇跡 ・ ヒトラーが信じた神話

    みなさんこんにちは。 プロイセン王フリードリッヒ2世に奪われたシュレージェン地方の奪還を目論むオーストリア女帝マリア・テレジア(正式には「女帝」ではありませんが。)が仕組んだ対プロイセン包囲網によって、フリードリッヒ2世のプロイセン王国は、西からはフランス、東からはロシア、南からはオーストリアに攻撃され、さらに北からはスウェーデンにバルト海を封鎖され、正に「四面楚歌」の状態にありました。 この圧倒的に不利な状態の中で、フリードリッヒ大王は少ない兵力で周囲の敵に出来るだけ打撃を与えるため、重点に兵力を集中させ、プロイセンを取り囲む敵の中で最も兵力の少ない部分を潰しながら素早く転進を繰り返す「各個撃破」戦法で何とかこれらの大軍との戦いをしのいでいました。 上はこの頃のプロイセン王フリードリッヒ2世の姿です。 苦しい戦いの連続でかなりお疲れのご様子ですね。 一国の王が、荒れ果てた民家の壁の前で丸

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  • 世界の戦争・歴史ブログ 神聖ローマ帝国の成立 ・ 王国から帝国へ

    みなさんこんにちは。 レヒフェルトの戦いに勝利し、国内に侵入したマジャール人勢力を追い払ったオットー1世はその後着々と国内の安定に努めていましたが、そんな最中の961年、かつて北イタリア王位を狙ってオットーの軍勢に敗れ、その後許されて北イタリアを代理統治していたベレンガリオ伯が再び野心をむき出し、今度は南のローマ教皇領を脅かす様になっていました。 ベレンガリオ伯は、北のオットー1世は強大すぎて勝てないため、その矛先を武力の弱い教皇領に向けたのです。これには時のローマ教皇ヨハネス12世はたまらずオットー1世に救援を求め、彼はその求めに応じて大軍とともに南下してベレンガリオ伯を追放し、ローマに入城しました。 上が教皇ヨハネス12世です。(937~964)彼はカール大帝の子孫に当たり、なんと18歳の若さで教皇になったのですが、それは彼の個人的な力量ではなく、名門カロリング家の出身という家柄の良さ

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  • 世界の戦争・歴史ブログ イスタンブール誕生 ・ 新帝都の建設

    みなさんこんにちは。 1453年5月、オスマン帝国皇帝メフメト2世は十数万の大軍をもって、およそ1100年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の帝都コンスタンティノープルを総攻撃し、1ヵ月半の死闘の末ついにこれを攻め落としました。これによって彼は、オスマン帝国歴代スルタンはおろか、歴史上誰も成し得た事のない千年の都の征服を成し遂げたのです。 しかし、その時コンスタンティノープル市内では、この都を千年の長きに亘って護り続けて来た三重のテオドシウス大城壁を破って突入したトルコ兵たちによる凄惨な略奪が行われていました。ヨーロッパやイスラム圏に限らず、古来敵に勝利した際の略奪は、勝った兵士たちに許された「特別ボーナス」の様なものであり、この戦いにおいてもそれが行われ、メフメト2世は配下の大軍に、3日間の略奪を許したのです。 市内になだれ込んだ10万を越えるオスマン軍は、最初は激しい殺戮を行いました。

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  • 世界の戦争・歴史ブログ ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国

    みなさんこんにちは。 1815年、皇帝ナポレオン1世が「ワーテルローの戦い」に敗れて退位すると、イギリス、オーストリアをはじめとするヨーロッパ各国は、そもそもの混乱の元凶であったフランスに再び革命を起こさせない様にするため、フランスを元の王政国家に戻す事を画策し、フランス革命により処刑された旧ブルボン王朝最後の王ルイ16世の弟で、プロヴァンス伯爵であったルイ・スタニスラスをルイ18世として即位させました。 いわゆる「復古ブルボン朝」です。 上が復古ブルボン朝のフランス王ルイ18世です。(1755~1824)彼はフランス革命勃発時にからくも難を逃れてイギリスで亡命生活を送り、ナポレオン失脚後は処刑された兄ルイ16世の次男で幼い王子17世がわずか10歳で哀れな最後(この少年の亡くなり方はあまりにひどくてかわいそうでとても自分には語れません。涙)を遂げた事から18世として即位しました。 このルイ

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  • 世界の戦争・歴史ブログ ナポレオンの失脚 ・ 外相メッテルニッヒとウィーン会議

    みなさんこんにちは。 今回から新たなテーマとして、 「ハプスブルク家とオーストリア・ハンガリー帝国」 と題して神聖ローマ帝国滅亡後のハプスブルク家の辿った歴史についてお話したいと思いますので、ご興味のある方は暇つぶしにお立ち寄りください。 このハプスブルク家とハプスブルク帝国について詳しくお知りになりたい方は上の3冊をお薦めします。ヨーロッパ最大の名門王朝である当家について知るには、とても1冊程度では全貌を把握出来ません。ハプスブルク家研究の権威江村洋先生の文庫を読みつつ図説で照らし合わせると理解が早いでしょう。3冊目は自分が個人的にお薦めするのですが、始祖ルドルフ1世に始まるほぼ全てのハプスブルク家の人々の肖像画や写真がフルカラーで掲載されており、資料としてとても優れた貴重なです。 時は19世紀初頭の1812年、フランス革命後の大混乱の最中に彗星のごとく現れ、数々の戦いに勝利してフラン

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  • 世界の戦争・歴史ブログ ポルトガル王国の没落 ・ 繁栄の終わりと衰退の始まり

    みなさんこんにちは。 東洋の香辛料貿易その他を独占し、一大海洋王国として空前の繁栄を謳歌したポルトガル王国でしたが、その繁栄の時代は16世紀後半に終焉を迎え、それ以後は緩やかに衰退の道を歩みます。一体なぜポルトガルはその様な道を歩む事になってしまったのでしょうか? その原因は三つあります。一つ目は香辛料(スパイス)貿易の衰退です。 前回ポルトガルがいかにして東洋の香辛料を独占入手したか、その概要をお話しましたが、ポルトガルがインド航路を開拓する以前、これらの香辛料貿易は「アドリア海の女王」「水の都」といわれた地中海最大最強の海洋都市国家ヴェネツィア共和国が独占していました。しかしヴェネツィアの香辛料はオリエント地方の陸路を経由して運ばれるため仲介者が多く、その都度仲介手数料が上乗せされるために最終的な売値は原価の20倍近くに跳ね上がる高価なものでした。(それでも他に入手先が無いのでヨーロッ

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  • 世界の戦争・歴史ブログ トスカーナ大公国の成立 ・ 栄光の再来 1

    みなさんこんにちは。 メディチ教皇クレメンス7世が1534年に亡くなると、次の教皇にはイタリア屈指の名門貴族ファルネーゼ家出身のパウルス3世(1468~1549)が即位し、メディチ家の後ろ盾はドイツ神聖ローマ帝国皇帝カール5世に移りました。 新教皇は前教皇クレメンス7世の失敗から、台頭著しいプロテスタント勢力との対話と共存の道を図ろうとしますが、厳格なカトリックの皇帝カール5世はこれを認めず、両者は(今に始まる事ではありませんが。)次第に対立して行きます。 当時のメディチ家の当主は、前回お話した様にアレッサンドロ・デ・メディチという人物で、皇帝カール5世から「フィレンツェ公」の位を与えられ、皇帝の娘マルガレーテと結婚してフィレンツェにメディチ家を世襲の君主とする「フィレンツェ公国」を樹立していましたが、生来の粗暴で放蕩な性格から周囲の反感を買い、1537年1月、一族の者によって暗殺されてし

  • 世界の戦争・歴史ブログ メディチ家と天才たち ・ 花開くルネサンス 2

    みなさんこんにちは。 持病の痛風と闘いながら、なんとかフィレンツェ共和国を運営していたメディチ家当主ピエロが1469年53歳で亡くなると、彼の息子で20歳のロレンツォ・デ・メディチ(1449~1491)が新たな当主となりました。 彼は祖父コジモや父ピエロ同様最高の英才教育を受け、まだ20歳の若者でありながら、すでに「王者」の威厳と品格を兼ね備えた人物でした。その事は周囲の人々を通じて広く知れ渡っており、またフィレンツェ共和国は祖父コジモ、父ピエロと2代40年に亘ってメディチ家の支配の下にあって、もはやメディチ家無しでは国が立ち行かなくなっていたので、共和国の代表たちはこの若き当主に、国家の頂点に立って国政を司るよう激励します。 ロレンツォは自分の年齢と未熟さを理由に最初は渋りますが、結局折れてその役目を引き受けます。しかし彼は一旦指導者となると、たちまちそのしたたかで有能な政治家ぶりを見せ

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