タグ

ブックマーク / shibayan1954.blog.fc2.com (2)

  • 後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎

    松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、 「歌書よりも軍書に悲し吉野山」 という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。 『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。 教科書には何も書かれていないのだが、明徳3年(1392)に南北朝が合一されて平和が訪れたわけではなく、南朝の皇統の子孫は反幕勢力に担がれて、南北朝の争いは応仁の乱(1467)に至るまで何度も続いたというのが真実である。南北朝合一後に、南朝の再建を図った皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室のことを「後南朝」という。 前回の記事で書いた土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村

    後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
  • 江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

    このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。 この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。 梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。 標準的な教科書である『もういちど読む 山川日史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。 「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言

    江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
  • 1