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ブックマーク / www.bunka.pref.mie.lg.jp (4)

  • 斎宮歴史博物館:斎宮千話一話

    第30話  最後の斎王の母をめぐる不思議な話 阿野廉子(あのれんし)【1301から1359】という女性がいます。後醍醐天皇の妃の一人で、新侍賢門院(しんたいけんもんいん)の号を受けた女院です。後村上天皇の母でもあるので、国母となりました。ただし南朝方の。 そして、最後の斎王・祥子(さちこ)内親王の母でもあります。 彼女は結婚して以来、ずっと後醍醐天皇の傍らにいた人でした。もともと皇太子時代の妃・西園寺嬉子(さいおんじきし)に付いてきた女房だったのですが、後醍醐の寵愛を受けるようになり、男三人女二人の子供をもうけました。その寵愛ぶりから、建武の新政を崩壊させた悪女とも言われるのですが、後醍醐の行く所、隠岐島から吉野の山奥まで同行し、息子の一人を後村上天皇として即位させたのですから、その行動力たるや驚くべきものといえるでしょう。 その第一皇女が祥子内親王です。祥子は斎王になったものの、建武政権

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    第11話  清少納言も紫式部もはまっていた・・・はず 先日、大阪にて関西広域機構主催の「関西ワークショップフェスティバル」に参加して、双六(すごろく)の指導をしてきました。 双六、といっても道中双六、つまりサイコロを振ってゴールをめざすゲームではありません。バックギャモンと同じと言われる、盤双六です。 11世紀の専制君主・白河上皇が、自分の意のままにならないものとして、賀茂川の水と比叡山の山法師とともにあげたのが「双六の賽」の目、というように、平安時代の人たちは貴庶を問わずこのゲームにどっぷり漬かっていたことは、よく知られています。 なにしろ日で「雙六」という文字が最初に見られたのは689年で、白河天皇より400年も前のことです。しかも、その資料はなんと、双六の禁止令でした。双六というゲームの発祥の地は紀元前2600年頃のメソポタミアといわれ、双六【雙六】という名は、「六の目が二つ」、つ

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    第36話  小さな大発見-ひらがないろは歌の墨書土器 その2 さて、ひらがな習書の「いろは歌」が斎宮から出土したことは、斎宮の歴史についてもさらに興味深い問題を提起するのです。 このひらがなは誰が書いたのでしょう。 「いろは歌墨書土器」が書かれた平安時代後期の斎王には、次のような人がいます。 1078年卜定 白河朝 やす(「女」へんに「是」)子内親王(3才)  娘 1087年卜定 堀河朝 善子内親王(12才) 異母姉妹(白河の娘) 1108年卜定 鳥羽朝 あい(「女」へんに「旬」)子内親王(16才) 叔母(白河の娘) 1123年卜定 崇徳朝 守子女王(23才)  祖父(堀河天皇)の従姉妹(白河の姪) この時期の斎王は、比較的長期に亘って在任する人が多く、特に善子内親王以降は、いずれも16年から18年も斎宮に滞在しています。これは、ちょうど白河院政期(1086年から1129年まで)にあたり、

  • 庶民の衣服に「花井の紙」-埋もれた史実掘り起こし

    挿図 花井の位置と『和漢三才図会』「紙衣」 数年前になるが、東京からある女性が県史編さんグループを尋ねて来られた。その女性は日ペンクラブの一員で、和紙文化研究会にも属されていて「花井(けい)の紙についての資料はないか」というのであった。 「花井」と書いて「けい」と読むことは熊野方面の資料調査などで聞いており、三重県の南端、熊野川の支流・北山川沿いの地名(現熊野市紀和町)であることは知っていた。また、熊野川河口の紀宝町鵜殿には製紙工場があって、熊野川沿いでは製紙業が盛んであることもおぼろげながら分かっていたが、「花井の紙」が全国的にそんなに注目されるのかと多少驚いた。そして、江戸中期の百科辞典『和漢三才図会』の「紙衣(かみこ)」の項に「奥州白石、駿州ノ阿部川、紀伊ノ華井(ケイ)、摂州大坂、之ヲ出、華井ノ紙衣特ニ佳シ…」とあることを教えられ、更にビックリした。 ちなみに、紙衣は紙子とも記され

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