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ブックマーク / booklog.kinokuniya.co.jp (7)

  • 『渋沢栄一』鹿島茂(文春文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「官尊民卑と闘った男」 渋沢栄一には以前から興味を持っていたが、なかなかその人となりを詳しく知る機会はなかった。20年ほど前に古牧温泉を訪れたときに、そこに移設されていた旧渋沢邸を見たことがあっただけだ。書店で『渋沢栄一』を見つけたときに、著者が鹿島茂であることに驚いた。種々の雑誌等の洒脱なエッセイでお目にかかる仏文学者が、なぜ渋沢の伝記を書いたのかと疑問に思って入手した。 どんな人にも、大きく人生を変える出来事がある。渋沢にとってそれはまず郷里の血洗島村で、父の名代として代官に会ったときに受けた屈辱である。御用金を頼まれた方なのに、頼んだ方が渋沢の人格を全く認めずに権柄ずくめの態度をとった。当時としてはこれはむしろ当然のことなのだが、それに対して憤りを感じるところに、鹿島は渋沢の「新人類」を感じる。 もう一つは、幕末にパリ万博へ赴く徳川昭武のお供として、パリ

    『渋沢栄一』鹿島茂(文春文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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    feather303 2014/02/26
    "渋沢は優れた民間外交も成し遂げている。「渋沢級の人物が日本にあと何人か、いや、あと一人でもいてくれたら、日米開戦という悲劇は起こらなかったにちがいない。」という鹿島の嘆きも納得できるところがある。"
  • 『アメリカの反知性主義』リチャード・ホーフスタッター【著】/田村 哲夫【訳】 (みすず書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「知性主義・脱知性主義・スーパー知能主義」 橋下旋風は、最近は鳴りをひそめているが、氏の言う「ふあっとした民意」がいまの日になくなったわけではない。ひとつはポピュリズムであるが、もうひとつは「を読んで」「くっちゃべって」いるだけ、「役立たず」の学者文化人という橋下氏の臆面なき発言に象徴される反知性主義的空気である。 この反知性主義をアメリカ史に探ったのが、書である。原書の刊行は1963年だが、「赤狩り」(共産主義退治)とあいまって反知性主義旋風をまきおこしたマッカーシズムの恐怖の時代に触発されて書かれたものである。マッカーシズムが吹き荒れていた1952年のアメリカ大統領選挙では、知性的なアドレイ・スティーヴンソンと凡庸な俗物風のドワイト・アイゼンハワーの戦いになった。アイゼンハワー陣営は、スティーヴンソンやその同調者を「エッグヘッド」と呼んでネガティブキ

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    feather303
    feather303 2013/12/13
    "知性は当面の実用的価値から身を引き離す能力、いまの仕事への没頭から超越した視点でものをみること。目先の具体的問題を越えて一般的な意味や価値の領域に入り込むことができるものをいう。"
  • 『親族の基本構造』 レヴィ=ストロース (青弓社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 『親族の基構造』は1947年に刊行されたレヴィ=ストロースの主著である。レヴィ=ストロースの名を文化人類学の世界で一躍高めるとともに、構造主義の出発点ともなった。 日では刊行から40年もたった1987年になってようやく番町書房から最初の翻訳(以下「旧訳」)が出た。学問的に重要なであるのはもちろん、40年の間には二度の構造主義ブームもあったのに、これだけ時間がかかったのは『親族の基構造』がそれだけ難物だからだろう。 旧訳の翻訳にあたったのは日文化人類学の一方の中心である都立大の研究者たちで、書であつかわれる東シベリアからインドにいたる地域で実地調査した経験のある人も含まれていた。 学問的には申し分ないだろうが、旧訳は読みやすいではなかった。わたしは出た直後に読もうとしたが、第一部の手前で挫折した。 今回もう一度挑戦しようと思いたったが、2001年

    『親族の基本構造』 レヴィ=ストロース (青弓社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    feather303
    feather303 2013/12/01
    "年代物のワインやフォアグラを一人で食べると罪の意識をおぼえるのは一人で飲み食いすることは一種のインセストだからだと指摘 : (彼は)パリの安レストランのワイン交換と未開部族の互酬贈与が同じだと考えている"
  • 『戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』伊藤正子(平凡社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 書を読んで、韓国は日の植民地支配や従軍慰安婦問題など、日にとっての負の歴史を持ち出して批難・攻撃する資格はない、などと考える人は、これからのグローバル化した協調社会のなかで生きていくことを、自分自身で難しくしていくことになるだろう。国家においても社会、個人においても、なにかしら「負の歴史」は存在するもので、それをほじくり出して批難・攻撃すれば、互いの中傷合戦に終始し、成熟した関係を築けなくなる。著者、伊藤正子は、「あげあし」をとることではなく、そこから日が学ぶことを書の目的にしている。 いっぽう、「過去にフタをして未来へ向かおう」というベトナム政府の方針も、続けていくことはもはや困難である。「ベトナム戦争韓国軍が虐殺行為を行っていた」という事実が明るみに出たのは、1997年にホーチミン市で大学院修士課程に入学し、ベトナム史研究を始めた韓国人女子留学

    『戦争記憶の政治学-韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』伊藤正子(平凡社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    feather303
    feather303 2013/10/30
    "『ハンギョレ21』の告発は韓国世論を戦慄させ,事実の解明と謝罪を求めるNGOの活動と「正義の戦争」に拘泥する保守派の反発を招いた。そして被害者であるはずのベトナム政府は経済発展を優先し,事件を封印している"
  • 『隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族』野村真理(人文書院) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 第一次世界大戦中に民族自決が唱えられ、帝国から解放された民族を中心とした近代国民国家が成立して「めでたしめでたし」、という国民教育のための近代史が単純に語れないことが、書からわかる。 オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、オスマン帝国といった多民族社会のなかでマイノリティとして生きていた人びとのなかには、すぐに民族国家を思い描くことのできた人びともいれば、しばらくして思い描くことができた人びと、いつまでたってもまったく思い描くことができなかった人びとなどがいた。近代国民国家の形成に翻弄された人びとがいたにもかかわらず、EUの成立、グローバル化のなかで、その意味がなくなろうとしている。第一次世界大戦を契機として、近代とはなんであったのかを問うことのできる地域として東中欧があることを、書は教えてくれる。 著者、野村真理は、つぎのように「はじめに」で述べ

    『隣人が敵国人になる日-第一次世界大戦と東中欧の諸民族』野村真理(人文書院) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    feather303
    feather303 2013/10/01
    "東中欧の諸国家では、第一次世界大戦それ自体は「国民」的記憶とはなりえない。"ポーランド人やウクライナ人にとって大切だったのは、独立して「国民」になることより、民族文化を守ることだった。"
  • 『忘却のしかた、記憶のしかた-日本・アメリカ・戦争』ジョン・W.ダワー著、外岡秀俊訳(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「忘却のさせられかた、記憶のさせられかた」とも読めた。書は、『敗北を抱きしめて』の著者ダワーが、1993年以降に発表したエッセイ・評論に、それぞれ自ら書き下ろした解題をつけた論集である。そのときどきに書いたものは、そのときどきの社会的背景や著者自身の環境などがあって、読み返すと何年か前の自分に反論したくなり、書のように1冊にまとめることができないことがある。それを可能にしたのは、「訳者あとがき」に書かれているように、「歴史家としてのダワー氏の姿勢の一貫性である」。だからこそ、過去と現在との対話ができるのである。 書の要約が、表紙見返しにある。「冷戦の終焉、戦後五〇年という節目において、またイラクやアフガニスタンでの新しい戦争が進行するなかで、日アメリカは、アジア太平洋戦争の記憶をどう呼びおこし、何を忘却してきたのか-」。「ポスターや着物に描かれた戦争

    『忘却のしかた、記憶のしかた-日本・アメリカ・戦争』ジョン・W.ダワー著、外岡秀俊訳(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    feather303
    feather303 2013/09/26
    "愛国的な偽りの歴史には、ひねくれた矛盾がある。公に宣言する目標は「国家への愛」をうながすことでありながら、一歩日本の外に出てみれば、そうした内むきのナショナリズムが日本に莫大な損失をおよぼしてきた"
  • 『アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「ポピュラー音楽はすでに伝統芸能か?」 タイトルだけからすると正統派の音楽史だが、実際にはなかなか強烈な〝斜めの目線〟を隠し持ったである。 音楽批評はしばしば「そのとき、オレは現場にいた!すごかった!」的な熱気にのせて語られることがある。対象が音楽であれば、たとえ録音されたものであってもナマモノな的な迫力は大事だろうから、「そのとき」の熱気を「オレ」の一人称で生々しく伝えることにはたしかに意味がある。しかし、それは報告ではあっても、批評の域にまで達することができるだろうか。批評というからには、巻き込まれつつも対象と一定の距離を保つことも必要となる。 同じような問題は、いわゆる音楽史にもついてまわる。歴史というからには、単なる「過去に起きた現在」の寄せ集めだけでは十分ではない。これは歴史です、と宣言する以上、そこには個別の「そのとき」を越えた何かが、流れを持った議論と

    『アメリカ音楽史 ― ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』大和田俊之(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
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