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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (14)

  • ララビアータ:マルクス主義 - livedoor Blog(ブログ)

    マルクス主義について、論争史的に論じてみることにする。わが国では、マルクス主義の理論的研究の歴史が厚いにもかかわらず、冷戦終結以後ほとんど顧みられなくなっているという現実がある。一般にこれは、我が国の思想史一般に言える傾向であり、次々になりゆく勢いにつれて流行を追うあまり、伝統とか正統というものが形成されず、以前に論じられた論争も結論も見ずにただ忘却されてしまうことになる。せっかく江戸時代に議論されてきた儒教の伝統が、明治になってほとんど顧みられなくなったようなものである。今日、マルクス主義が再び脚光を浴びつつあるが、そこでも以前に論争の的になった問題圏が忘却されているように見えるので、あらためて論争史的に議論してみたい。 順不同でこれまで論じられたことのある問題を列挙してみよう。 1) 何故「社会主義革命」が、マルクスの予言したように先進諸国で起こらず、後進地域においてのみ成功したのか?

  • ララビアータ:イシドロ・リバス神父の葬儀 - livedoor Blog(ブログ)

    リバス師は、私が駒場の学生時代居住したザビエル学生寮の寮長をしていたイエズス会の神父である。リバス神父が91歳で永眠したという訃報に接し、イグナチオ教会で執り行われたリモートのミサに参加した。 https://www.youtube.com/watch?v=0_W-obXbL_I その死を悼み、私の狭い経験の範囲で見た神父のお姿について、思い出を書き記しておきたい。 ザビエル学生寮は、駒場東大駅から徒歩で五分もかからない井の頭線のわきに今にも倒れそうな姿で建っていた。思えば十八の春入学すると同時に、ザビエル寮で数年にわたってリバス神父のお世話になることになった。お世話になったといった月並みな言葉ではとても言い表すことができない。 当時、入寮には作文と二つの面接に通ることが必要であった。一つは、寮生委員会の面接であり、もう一つは寮長面接である。私は、寮生委員会面接には落第していたようである。

  • ララビアータ:「俗情との結託」 - livedoor Blog(ブログ)

    ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。 科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか? と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。 ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。 私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議であ

  • ララビアータ:トロツキスト - livedoor Blog(ブログ)

    「トロツキスト」というのは、ロシア革命でレーニンに次ぐ活躍をしたレオン・トロツキー(名ブロンシュタイン)の思想と行動に単に共鳴する人のことを指すのではない。それ自体極度に論争的な文脈と含意を持つ言葉であったし、また今でもそうである。今日、そのような文脈がほぼ消滅している中にあって、それについて論じるアクテュアリティは少ないと思われるが、私自身、一時トロツキストとして活動した時期があるし、今日でも一部そのような運動にある種のノスタルジーを感じる人もいるので、私自身の今のスタンスを明らかにしておきたいと思うのである。 私は、政治的伝統とか政治的権威というものには大きな意義を認めるものであるが、ノスタルジーのような感傷は、政治という領域においては極めて有害であると思っている。それゆえ、特定のイデオロギーの政治的意義とその欠陥を明瞭にしておくことは、今なお重要であると思う。 トロツキストとは、ソ

  • ララビアータ:信仰と文学 - livedoor Blog(ブログ)

    これまで論じてきた信仰についての見方は、多くの信仰者、とりわけキルケゴールを納得させるものではないだろう。 たとえ同時代の者が「我々は神がこれこれの年に卑しい僕の姿を取って地上に現れ我々の前で行き、教え、そして死んだということを信じた」という言葉以外の何も残してくれなかったとしても――これでもう十分のわけだ。『哲学的断片』p−212 「永遠的なもの」が時間的なものの中に出現したというキルケゴールの≪逆説≫を尊重するとしても、これで十分であろうか? これによって信仰はごく形式的な信仰個条の如きものになってしまう。 それに対して、私は伝承されたテクストのどの部分が他の部分より重要だとか重要でないなどとは言わない。文学を読むように、テクストとの出会いを尊重し、それを単純な観念に還元しようとはしない。信仰の質はこれだ、などと言うべきではないからである。 各人各様の読み方と出会い方があってよく、「

  • ララビアータ:井上達夫氏の新著と憲法論 - livedoor Blog(ブログ)

    井上達夫氏から、新著『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)をお送りいただいた。その内容についての評価は、時局がら厳しくならざるを得ない。ここでは厳密な書評というより、時局論として限定的な批評をしたい。事態はそれほど切迫しているからである。それ故、問題を憲法9条の問題に絞って論じることにする。 全体として、政治的センスの欠けた空論という印象である。ひょっとしたら、「リアリティ」に流されて規範的議論に欠けがちな我が国の論争状況において、わざとそうふるまっているのかと錯覚してしまうほどである。 憲法9条についての空論――それはその歴史的沿革を無視して条文だけに拘泥することによる。解釈の対立が生ずる場合、憲法の精神(憲法の政治哲学)に立ち返って、参照することが必要である。 ところが日国憲法の場合、難しい問題がある。一つは戦争放棄であり、もう一つが天皇

  • ララビアータ:『戦争思想2015』(河出書房新社)の出版 - livedoor Blog(ブログ)

    私を含む14人が論文やエセーを寄せている。 すべてを克明に読んだわけではないが、私の見るところ、加藤直樹氏の「昭和19年を生きる」と椹木野衣氏の「絵画における「近代の超克」と「戦後レジームからの脱却」」に特に感銘を受けた。 両名とも、私がこれまで耳にしたことのない書き手である。 加藤氏は、近年我が国に蔓延している病的な「現実否認」を解明してくれる。 氏はそれを、明治期から戦後に至るまで受け継がれた「進歩」と「立身出世」の観念に求める。 これによって、我々の祖先たちは、アジアの民族主義の意味を理解できず、自己の前に挑戦し立ちふさがる他者を、恐怖の対象にしてしまったと言う。慧眼と言うべし。 椹木(さわらぎ)氏の方は、藤田嗣治や宮三郎らによる戦争中の戦争絵画について書いている。しかもそれを、彼らより一世代若く、戦時中それに強烈なインパクトを受けた少年、成田亨の眼を通して論じている。 成田は、の

  • ララビアータ:三島由紀夫『絹と明察』 - livedoor Blog(ブログ)

    いただいたコメントがきっかけで、『絹と明察』を読んでみた。 今回読んでみて、三島由紀夫の精神構造について気づくことがあったので、記しておきたい。 『絹と明察』は、周知のように1954年の近江絹糸の労働争議に材料をとった一種の経済小説である。会社はすべて家族であるという前時代的家族的経営を信条とする社長の駒沢善次郎のキャラクターが、ユーモラスと言うより辛辣に描き出されている。対するに、政財界にフィクサーとして活躍する知識人岡野。この男は、戦前は「聖戦哲学研究所」という右翼団体の一員であったが、戦後はちゃっかりその人脈を使って、巧みに世の中を泳ぎ渡る人物である。 家族的経営のイデオロギーに染まっていた社員たちは、他社に比べて劣悪な雇用条件にも甘んじているが、ちょっとしたきっかけでストライキに突入していく。岡野が偶然出会った青年工員大槻とその恋人弘子のカップルを、社長の駒沢に紹介する。そこで、社

  • ララビアータ:丸山眞男と大西巨人 - livedoor Blog(ブログ)

    間宮陽介氏の『丸山眞男を読む』を読んだ。以前にも一度読んだ気がするが、その時の印象はあまりなかった。読み直して、行き届いた良書という印象。批評的エッジという点では、梅克己や鎌田哲哉氏の丸山論には及ばないかもしれないが、丸山の問題意識に即して、あくまでも内在的に丸山の所論を読み解く一貫性と包括性という点で、他の追従を許さないものではなかろうか? 今回は、特に丸山の名著『忠誠と反逆』をめぐって考えてみた。 丸山は、我が国の武士道を、ヨーロッパや中国の封建的イデオロギーとの対比において、主君に対する無条件の人格的帰依という主観的・非合理的要素が圧倒的であるとして、契約関係に基礎を置いたヨーロッパのそれとも、治国平天下の普遍的世界秩序のもとに、主従関係を体系的に位置付けた儒教的イデオロギーとも、違う特徴を持つものと見た。もとより、単なる主観的感情だけでは、己れを律する規範的イデオロギーとはならな

  • ララビアータ:松浦寿輝氏の『明治の表象空間』(1)近代日本語と漢学 - livedoor Blog(ブログ)

    手に取りて巻置く能わざる経験――しかるに、また同時に、すんなりと読み飛ばすことを禁じ、そのつど思考を強制するが如き、また誘発するが如き、観念の聳立蟠踞に目のすくむ思いをしながら、しばし書物から目をそらし嘆息・黙考する――そんな不思議な経験を久しぶりにした。 ある個所に差し掛かるや、疑念百出して、反論勃と立ち上がるのだが、次のページを繰ると、まさにその疑問を著者自身堂々と提起し、応えようとしている。我々はさながら、著者の掌中におちこちと迷い、自ら道を切り開かんとするに、実はすでにそれが先取りされていて、孫悟空がお釈迦様の掌の内を動くが如し、というわけだ。 文学、歴史、思想史など確かな教養に裏付けられた論述は骨太であり、横断的に走る洞察には思いがけない発見が満ちていて読者をひきつける。しかもそれが、今どき珍しいおよそお子様向きでない堅固な石材のような文体で、過不足なく積み上げられてゆくのであ

  • ララビアータ:「真理の再生」(哲学会)によせて - livedoor Blog(ブログ)

    昨年の哲学会のシンポジウム「真理の再生」を受けて、記したエセー「反実在論的真理観」(『哲学雑誌』2014所収)が印刷されて送られてきた。営業的なものではないので、ここにその全文を記載しておく。 その道の人が一読すれば明らかのように、わたくしここでハイデガーの哲学に対して、ほぼ全面的な批判を試みている。もちろんそれは、ハイデガーの関心にとって外的な観点からなされるような不毛な「批判」ではない。かかる思想家と対決する場合には、そのような批判は何の意味も持たない。(なお、表記上累乗表現ができないため、一部不都合なところがある) 【反実在論的真理観】 「我々は、真っ直ぐなものによって、当の真っ直ぐなものも、曲ったものも認識するのである。」 アリストテレス『デ・アニマ』(411a5) 「真理は真理自身と虚偽との規範である。」 スピノザ『エチカ』第Ⅱ部定理43備考 ビッグバン仮説で有名なジョージ・ガモ

  • ララビアータ:稲葉振一郎氏への応答 - livedoor Blog(ブログ)

    稲葉さま 貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかはらず、いけしゃあしゃあといっぱしの

  • ララビアータ:戸田山和久『哲学入門』(補遺) - livedoor Blog(ブログ)

    「私は中学生の時に、谷村新司やさだまさしを好むような人間には絶対なるまい、と決心したもんね。なぜかは忘れたけど。」p−347 ――特徴的なのは「なぜかは忘れたけど」である。独断的価値判断を下しながら、理由を示して発言に責任を取ろうとはしない。これは政治であることを自覚しない政治である。それゆえ、哲学を自称する非哲学である。 議論なしに読者と裏口から手を結ぼうとしている。末人たち(letzte Menschen)が互いに目くばせする隠微な連帯。暗黙で直接的な感性での共犯を誘い、それを無批判で是認させるだけではない。むしろ、議論を超えた一致があるかのように装って、読者を恫喝するのである。これは「判断力の普遍的一致」(カント)どころか、そのような自由な判断力を抑圧するように圧力をかけているのだ。実際には、谷村新司やさだまましの価値観や、彼らに象徴される理念や非理念などが問題なのではない。彼らがど

  • ララビアータ:戸田山氏『哲学入門』(2)進化論 - livedoor Blog(ブログ)

    人間特有の精神的諸現象を物理的世界に定位するための、戸田山氏の戦略は、容易に予想されるように、進化論に訴えることである。つまり、「意味」その他、特殊「人間的」と見られがちな「存在もどき」を、物の中から生物が生じ、それが進化してくる進化の歴史の中に位置づけ、いわば物理的世界と精神との連続性を印象付けようというもの。 このとき、進化の説明を、ある機能を身につけることが生き残りにより有利であるとして説明しがちであるが(たとえば、推理的知性を身につけた方が生き残りやすいから、その進化が起こった)、考えてみれば、そのような機能を身につけていないより「下等」な無数の生物が、同様に生き残っているのである。 何かの機能を身に付けた種は、それによって何かを犠牲にしてもいるはずである。哺乳類の子育ては、子孫の生存率を高めたが、同様に卵の数を減らした。進化によって、種が多様化し、さまざまな環境への適応力が生まれ

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