ビールとポップコーンと映画 ラストマイルを見た。良い映画だった。 映画館でべそべそ泣いて、鼻を啜りながら車で帰った。感想はこのブログでは書かない。みんな映画館に行って感じてみてほしい。 帰ってからツイッターで感想を漁り、うんうん、わかるわかる、そうだよね、とまた映画を思い出して…
カテゴリー当事者への居直りではなく、素材化としての《当事者-化》。 プロセス中心主義。 私は9年前、「ひきこもりの当事者」という役割固定で社会参加の機会を得た*1。 しかしその後の私は、「当事者的分析」を周囲に要求したことで、排除されるようになった。 私に近づいてくる人のほとんどは、私を「ひきこもり当事者」という役割フレームに監禁するだけで、取り組みとしての当事者的言説化は拒否する*2。 ほとんど全てのマイノリティ論は、《コスプレ的役割固定》と、politically correct な《メタ正義の居直り》のカップリングでしかない。 この発想では、マイノリティ側は役割としての「当事者=被害者」に居直りたがるが、実際に生きられた関係のなかでの当事者性を引き受けなおすことをしない*3。 私は、既存の当事者論に洗脳されたままコミュニティを築こうとして(あるいは参加を続けようとして)、メチャクチャ
「固定された成功状態を実現できなければ、お前には価値がない」とすることが、本当の意味での保守だ。最初から到達地点を決めておいて、それに到達できなければ尊厳がない、と見下す。 宮台真司、斎藤環が保守なのは、制作と目的地の関係にある。彼らはすでに「目的地」を実現できたと言い張り、「到達できなければ認めない」という。だからこちらの制作行為が自滅する。 うまくいっていない現実がある、 いちど得た最愛の存在を失った なら、 その最底辺でそれを言葉にし、その内側からつながりを生み出していけばいいではないか。 完成形がどうなるかは知らない、それとの関係で自分の尊厳が決められるわけではない、 今の自分が決めるべきでもない。
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