平川祐弘氏佳境迎えたカルチャー教室二〇〇八年、『源氏物語』千年紀の国際フォーラムが京都で開かれた折、基調講演者として招かれた私は《『源氏物語』の翻訳者アーサー・ウェイリー》について語り、一冊の書物にまとめた。 その時から『源氏物語』を原文とウェイリーの英訳と照らし合わせて読む授業を続けている。十七年が過ぎ、いま五十四帖(じょう)中、五十一帖「浮舟」の巻が終わろうとしている。薫(かおる)大将と匂宮(におうのみや)の二人に言い寄られ、浮舟は立つ瀬が無くなり、宇治川へ入水(じゅすい)を決意する―。
歴史の玉手箱がまた一つ開いた。 小倉百人一首の選者とされ、鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家の自筆本が子孫である京都市の冷泉家で見つかった。 失われたと考えられていた古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」だ。写本が重要文化財に指定されているが、原本だけに、研究者は「国宝級」と評価する。 和歌は日本文化の源泉の一つといえる。今後の研究成果に期待したい。発見されたのは上中下の3冊で、中と下の2冊が定家の自筆原本と確認された。上は後の当主による写本で、原本は火災で失われたらしい。 和歌の奥義を伝えるという特別な「古今伝授箱」に収められ、蔵の中で明治期以来約130年間、開けられなかったという。歴代当主は一生に一度開けて書写するなど、研究を重ね研鑽(けんさん)を積んできたそうだ。 内容は、歌学者の顕昭による注釈に、定家が自説を付け加えたものである。現代に至るまで和歌研究のみならず、国文学
13年がかりの修復作業でカビなどが除去された西壁の「飛鳥美人」壁画=令和4年3月、奈良県明日香村の修復施設「飛鳥美人」壁画で知られる高松塚古墳(奈良県明日香村、7世紀末~8世紀初め)とともに、幻の鳥・朱雀(すざく)などが描かれたキトラ古墳(同)。極彩色壁画の古墳は国内にこの2つしかなく、壁画はいずれも墳丘内での保存が困難として専用施設に移された。文化庁の検討会委員として両古墳の保存に関わったのが、百橋明穂(どのはし・あきお)・神戸大名誉教授(73)=美術史。「高松塚は人の手が入りすぎたことで劣化につながった。人の力を過信したのが教訓」と指摘。「第3の壁画古墳が見つかれば、最小限の調査にとどめて石室を閉じ、後世の技術に託す判断も必要」と提言する。 高松塚古墳で壁画が発見されたのは昭和47年3月21日。大学院生だった百橋さんは「まさか日本にこれほどの壁画があるとはと、多くの専門家が興奮した」と
高松塚古墳(奈良県明日香村)で極彩色の「飛鳥美人」壁画が見つかって50年。記念シンポジウムが3月20日、東京都内で開かれ、昭和47年の発掘に携わった研究者が登壇した。壁画発見前日の同年3月20日を振り返り、「50年前のこの日、高松塚は嵐のような荒天だった」と回想。「私たちが石室に入らないよう、被葬者が最後のあらがいをしたのではないかと今でも思っている」と語った。美術史の専門家は「飛鳥美人だけ描き方が違う」とし、「当時の原則から外れており、若手の絵師が描いたのでは」と推測した。高松塚の謎は、半世紀を経ても尽きない。 壁画にこそヒント「7世紀末から8世紀初め」。歴史の解説書などは高松塚古墳の築造時期を明確に記している。しかし、「7世紀末はあり得ない」と主張したのが、有賀祥隆(よしたか)・東北大名誉教授(美術史)だ。 築造時期は、発掘で見つかった土器や副葬品から推定されたが、出土品には文字もなく
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