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philosophicalに関するmicrotestoのブックマーク (371)

  • 科学史・技術史入門

    佐野正博(1984)「理論比較と共約不可能性」『科学基礎論研究』Vol.16 No.4, pp.25-32 佐野正博(1987)「科学の連続性と合理性」『科学哲学』20 佐野正博「科学的認識における相対性と相対主義」 技術論入門 技術戦略論 イノベーションに関するクリステンセンの理論的見解 技術の社会選択と技術進歩 技術の内的構造に関する構成要素論 的考察 技術歴史的発展段階論 s 技術論に関連する私の論文 佐野正博「技術史の「基礎論点」をめぐって」 佐野正博「現代オートメーションの技術史的位置づけ」 <初出>『経営論集』(明治大学経営学研究所)、第44巻 第3・4合併号(1997)、pp.199-232 佐野正博「技術技術的構成と技術発展」 科学史入門 歴史における科学的思考 データの歴史的限定性と「科学理論」評価の問題 科学史に関連する私の論文 佐野正博「初期量子論の形成と受容 」

  • なぜ・何を・どうやって科学者に科学哲学を教えるのか - まとまり日記

    という論文を読んだ(リンク)。著者はスウェーデンの科学哲学者で、科学哲学が科学者及びその卵である理系学生に貢献できる理由と方法について書いてある論文だ。 なぜ教えるのか 科学者やその卵である理系の学生にに科学哲学を教えるべき理由として、著者は方法論的な理由を強調する。科学者の養成過程で、学生はその科学の方法論についても学ぶ。しかし著者の見るところ、その方法論にはきちんとした正当化を欠いたまま教えられているものがあるという。著者の挙げるのは次のような例だ。 経済学では単純なモデルが尊ばれる。たとえばは著名なミクロ経済学の教科書の著者であるヴァリアンは「考えられうる限りで最も単純なモデルを書き付けて、それがなおなにかおもしろい振る舞いを見せているかチェックせよ。そしてもしそういう振る舞いを見せているなら、モデルをもっと単純にせよ」と述べる。しかし著者の見るところ、なぜ単純なモデルが優れているの

    なぜ・何を・どうやって科学者に科学哲学を教えるのか - まとまり日記
  • Amazon.co.jp: ドイツ保守革命―ホフマンスタール/トーマス・マン/ハイデッガー/ゾンバルトの場合: 伯水,青地, 裕,國重, 健太郎,恒木, 和秀,友田: 本

    Amazon.co.jp: ドイツ保守革命―ホフマンスタール/トーマス・マン/ハイデッガー/ゾンバルトの場合: 伯水,青地, 裕,國重, 健太郎,恒木, 和秀,友田: 本
  • ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape2

    原題は"Aesthetics and the philosophy of art : the analytic traditon : an anthology"で、編者はPeter LamarqueとStein Haugom Olsen。 英語なので、ブログ記事タイトルは自分の勝手な翻訳。以前、洋書のタイトルをそのままブログのタイトルにしたら、何か反応が悪かったような疑いがあるので、あえて訳してみた。分析的伝統は日ではあまり使われない言葉。日では「分析美学」と言った方がまだ通じやすいと思うが、向こうではあまり使わないらしい*1 46の分析美学論文が収録されているアンソロジー。 だが、実は収録論文をまだ1も読んでいない! 各章に簡単なIntroductionがついており、まずそれらだけを読んでみた。ので、今回の記事はIntroductionのみの紹介となる。 各論文については、こ

    ラマルク+オルセン編『美学と芸術の哲学:分析的伝統:アンソロジー』 - logical cypher scape2
  • 宗教としてのマルクス主義(Ernest Gellner) - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 Ernest Gellner “Religion and the profane” http://www.eurozine.com/articles/2000-08-28-gellner-en.html (宗教としての)マルクス主義の衰退について語っている部分。 先ず、蘇聯崩壊後に明らかになったことは、実は〈信者〉(〈主義者〉)が殆どいなかったということである。「特権」(利権)にしがみつく奴はいても「教義」にしがみつく奴はいない。何故か。ゲルナーはマルクス主義の思想としての特性及び系譜に言及する; What undid Marxism is not its secularism, but on the contrary, its pantheism that it inherited from Spinoza through Hegel. The basic Messianic

    宗教としてのマルクス主義(Ernest Gellner) - Living, Loving, Thinking, Again
  • 特設サイト「井筒俊彦入門」 | 慶應義塾大学出版会

    当コーナーは、哲学者、言語学者、イスラーム学者として知られる「井筒俊彦」の入門ページです。 若松英輔氏による多角的な視点から井筒俊彦に関するエッセイをお届けします。

  • 『デカルト伝』 ロディス=レヴィス (未來社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 デカルト研究の第一人者、ジュヌヴィエーブ・ロディス=レヴィスによる伝記である。ロディス=レヴィスは大著『デカルトの著作と体系』(紀伊國屋書店、絶版)とクセジュ文庫の『デカルトの合理主義』(白水社)が邦訳されている。 デカルトの伝記は1691年に刊行されたバイエの『デカルト伝』(講談社、絶版)が長らく決定版とされ、今でも準一次資料としてあつかわれているが、書はそのバイエに代わる新たな決定版伝記という評価が定まっているという(小林道夫『デカルト入門』でもそういうあつかいだ)。 わたしが書を手にとったのはダヴィデンコの破天荒な伝記小説『快傑デカルト』にどの程度信憑性があるかを確かめたかったからだが、結論はすぐに出た。ロディス=レヴィスは「プロローグ」の末尾に「デカルトの伝記作者たち」という補説をつけ、デカルト没後3年目にでたリプシュトルプから今日にいたる代表的な伝記を俎

    『デカルト伝』 ロディス=レヴィス (未來社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?

    週刊ダイヤモンドの記事「続・憂国放談」で、浅田彰×田中康夫の対談のゲストに宮台真司が来たときのこと。http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200512/ ぼーっと見てたら、浅田彰のフーコーの権力論(と統治論)の明快な整理があったので、ちょっと長いけれど引用。 (…)ギデンズやベックは第二の近代として再帰的近代ということを言っている。それに対して、ポストモダン思想などと言われる側では、ミシェル・フーコーが考え、ジル・ドゥルーズが延長した図式、ソヴリンティからディシプリンを経てコントロールへという図式があるんですね(フーコー自身は、早すぎた晩年の講義録などを見ると、ソヴリンティ/ディシプリン/セキュリティという三幅対で、ただし歴史段階論的にではなく考えていたようですが)。ソヴリンティ(主権)とは、要するに君主権ということで、神とか王とか父とかいうような超越的

    浅田彰によるフーコーの整理 - Hello, How Low?
  • SYNODOS JOURNAL : 法を守る理由 大屋雄裕

    2010/9/130:0 法を守る理由 大屋雄裕 なぜわれわれは法を守らなければならないか。 この質問は一般的に、たんに法の命ずるところに反する行動を取らないこと(遵守compliance)だけではなく、たとえその内容が自らの信念に反しているとしても、それを尊重すること(服従obedience)の問題として理解されている。 ソクラテスがそうしなかったとき、彼は単に法に《従わされた》のではなく、自発的に《従った》のである。だが、それは何故なのだろうか。 ◇愛に基づく議論、公正による議論◇ この問題に答えるひとつの典型的な方法は、家族愛ないし同胞愛に訴えることである。 ソクラテスがまさにそう述べたように、国家なくして個人は存在しないのだからそれは親のごときものであり、親の命令を子が聞くように、自らを生み出した国家の命令に個人はしたがわなくてはならないというわけだ。 だが個人が集まって国家をつく

  • 本当の悲しみ - Cafe Eucharistia

    まだ私が学部1,2年生の頃、中世哲学、とくにアウグスティヌスの専門家の中沢宣夫先生に対し、大変生意気な質問を投げかけたことがある。ソクラテス以前の哲学についての講義の際、哲学の一命題としての「良く生きる」ということに関して、私は中沢先生にこう問いかけた。一体、söllen に基づいて生きることに、どういう意味があるのか、そういった生き方の先には、世俗社会と乖離した、哲学者の独断的狭小な社会が開けるにすぎないのではないか、というような内容だったと記憶する。この、私の不躾な質問に対して先生はムッとするどころか、ニコニコ顔で、このような質問をした私を褒めてくださった。とても穏やかな先生であった。 国を憂い、社会を憂いて、あるべき社会を目指して行動しようとする。こういった生き方を全面的に否定するつもりはないけれども、このような仕方、つまり自分の進むべき、あるべき道を自ら定め模索するようなやり方は、

    本当の悲しみ - Cafe Eucharistia
  •  「無能な者たち」をめぐって - shinichiroinaba's blog

    http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-e7c7.html 「無能」にまつわる小玉重夫の議論は言うまでもなく田崎英明『無能な者たちの共同体』を踏まえたものであるが、田崎の語り口は小玉のそれに比べるともう一段ガードが堅い。 小玉の語り口は余りにも見え見えというか、謙虚なそぶりをした傲慢、無防備なルサンチマンの露出という弱点がある。もちろん小玉による「無能」論は田崎のそれと無縁というわけではなく、韜晦気味の田崎の議論をわかりやすくパラフレーズしたものであるといってよいが、田崎の表現はもっと不気味なものだ。小玉の議論がわかりやすく謙虚なそぶりにおいて、すなわち「無能」に対する「有能」の優位をとりあえず認めつつそれを脱構築し逆転するという形で論が示されているのに対して、田崎はより直截に臆面もなく、「無能」の「有能」に対する優位を

     「無能な者たち」をめぐって - shinichiroinaba's blog
  • グールドがしかとされて? - Living, Loving, Thinking, Again

    http://blog.tatsuru.com/2009/12/08_1204.php 「辺境」*1ネタの一環として、内田樹氏曰く、 私はほんとうに受け売りだけでご飯をべているようなものである。 しかし、この「受け売り屋」というありようを私は日の知識人の態的なかたちではないかと思っているのである。 「外来の知見」に「ほほ〜」と仰天し、それを換骨奪胎加工調味して「ぱちもん」を作り、廉価で読者のみなさまに頒布する。 業にお忙しくて、なかなかむずかしいにまで手が回らない人々のために、『千早ぶる』の大家さんのようなリーダブルな解釈を加える人たちがそこここにいるという社会は珍しい。 私などは『千早ぶる』の解釈を専業にした「大家さん」のようなものである(「大家」さんはちゃんと店賃の取り立てとか、店子の夫婦げんかの仲裁とかしているけれど、私はそれもしていない)。 こういう業態はヨーロッパのよう

    グールドがしかとされて? - Living, Loving, Thinking, Again
    microtesto
    microtesto 2009/12/14
    原典・英訳・邦訳なら英訳読むのが一番C/Pいいなと感じる(特に思想系)/難しくないと有難くないメンタリティとか難しくないと尊厳が保たれない問題があるんだろうね多分、あと訳者が理解してないってのもありそう
  • 2009年度日本法哲学会学術大会概要 - 法理論を語る

    2009年11月14日(土)15日(日)の2日間にわたって、関西大学千里山キャンパス第1学舎にて、日法哲学会学術大会が開催されました。今年度学術大会の統一テーマは「リスク社会と法」ということで、例年とは異なる参加者も多く、盛会でした。私は2日目に行われた統一テーマ報告・シンポジウムのコメンテーターの一人として参加させていただきました。オーストラリアから日に一時帰国しての参加で、移動には疲労が伴いましたが、今年度大会の統一テーマは個人的にも関心あるものだったので、有意義な大会となりました。 大会の内容は盛りだくさんです。大会第1日目(14日)午前の部では、個別テーマ報告A分科会に参加しました。個別テーマ報告セッションでは、比較的に若手の研究者が、博士課程等での研究成果を報告し、フロアからの質疑に答えます。A分科会では、ヒュームの正義論に関する最近の有力説の問題点を検討する報告や、カナダの

    2009年度日本法哲学会学術大会概要 - 法理論を語る
  • ベンヤミンなど - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 先ず、所謂〈フランクフルト学派陰謀論〉は(911陰謀論などと同様に)made in USAの舶来品である可能性が高い。例えば、 Gerald L. Atkinson “What is the Frankfurt School?” http://www.newtotalitarians.com/FrankfurtSchool.html は米海軍に浸透するフランクフルト学派というノリ。 さて、 PledgeCrew*2 2009/11/07 11:47 上に出ている都留とかはともかく、近いところで、フランクフルト学派に多少なりと関係ありそうなのは、丸山真男くらいでしょうか。彼の『日政治思想史研究』では、ボルケナウを参考文献としてあげてますね。もっとも、ボルケナウもウィットフォーゲルと同様、研究所に在籍してはいても、「フランクフルト学派」とは言えないでしょう。 ところで、Wikipe

    ベンヤミンなど - Living, Loving, Thinking, Again
  • Heidegger - Living, Loving, Thinking, Again

    Ralph Brave “Being Martin Heidegger” http://archive.salon.com/books/feature/2000/11/13/heidegger/index.html http://archive.salon.com/books/feature/2000/11/13/heidegger/index1.html http://archive.salon.com/books/feature/2000/11/13/heidegger/index2.html http://archive.salon.com/books/feature/2000/11/13/heidegger/index3.html ハイデガーの『形而上学入門』の英訳者Richard Polt氏へのインタヴュー。Polt氏は”representative of a new gener

    Heidegger - Living, Loving, Thinking, Again
  • ハイデガー追放? - Living, Loving, Thinking, Again

    PATRICIA COHEN “An Ethical Question: Does a Nazi Deserve a Place Among Philosophers?” http://www.nytimes.com/2009/11/09/books/09philosophy.html 仏蘭西の哲学者、Emmanuel Faye*1の2005年の著書、Heidegger, l'introduction du nazisme dans la philosophie. Autour des séminaires inédits de 1933-1935の英訳が近々刊行されるが、これはファシスト思想やレイシズムがハイデガー哲学の質に組み込まれていることを論証したものだという。Faye氏は、そこからハイデガーに影響を受け、或いは彼の思想をベースにした人文系諸学は自らの根的な再検討を要すること

    ハイデガー追放? - Living, Loving, Thinking, Again
  • 意識に上るとは、どういうことか? 脳神経科学と自己 - 粂 和彦のメモログ

    先日のセミナーの内容の簡単なご紹介です。 話された内容も書いたつもりですが、感想だったり、ぼくの意見・解釈だったりが多いので、あくまで私的まとめです。なお、メモを書き込んだ汚いものですが、当日配布されたレジメもアップしておきます。 PDFファイル(約600Kbyte)です。 「熊大・東大合同セミナーレジメ.pdf」をダウンロード ●「マインド・コントロールの脳神経倫理学―ニューロマーケティングと消費者の自律性―」 (小口峰樹 東京大学大学院総合文化研究科博士課程) 従来のマーケティングでは、depth interview, focus group, loyalty card などを用いた調査が主流だった。これらは「意識」的な購買理由を問題にしているが、1.脳機能画像法などが進歩して手軽に使えるようになってきたこと、2.認知心理学の進歩から、意志決定の「意識的」理由に対する信頼性が揺らいだこ

    意識に上るとは、どういうことか? 脳神経科学と自己 - 粂 和彦のメモログ
  • 勉強すべきことは沢山ある(アレント、アリストテレスなど) - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090308/1236477812 アレントの“The Crisis in Culture”における「フロネーシス」についての議論。また、『カント政治哲学講義』の編者ロナルド・ベイナーの解説「ハンナ・アーレントの判断作用」を引きつつ、「彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだ、と思われる」。また、「ペリクレスが称讃されるのは、自分一個人の利害や功名心を離れて政治を指導したと伝えられることによるのであって、アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう」。アレントのいう「偏らないこと(impartiality)」については、同じ『過去と未来の間』に収録されている「歴史の概念(The Concept of History)」を参照されることをお奨めする

    勉強すべきことは沢山ある(アレント、アリストテレスなど) - Living, Loving, Thinking, Again
  • 宗教を哲学するということの(不)可能性

    【注意書き】 以下の文章は、『聖学院大学総合研究所Newsletter』18-3(2009. 1), pp. 4-5に掲載された研究ノートです。新任の自己紹介的な文章なので、その部分のみ、初出時からごく一部表現を改めている箇所があります。また、初出時にはなかった節の区切りとタイトルを入れています。 宗教を哲学することの終わり? 筆者はこれまで、現代フランス・イタリアの哲学、特にその現象学・解釈学に属する哲学者たちの思想を専門に研究してきた。近年その両国では、多くの哲学者が「神の死以後」という視点のもとで「宗教(的なもの)」をラディカルに主題とするようになった(そうした動向は時に「神学的転回」と呼ばれ、批判の対象にもなってきたが)。このような経緯から、筆者もまた、そうした宗教論を中心に研究を進めてきた。 ところで、近年この「宗教を哲学する」という試みは、大きく変化を迫られている(1)。従来

  • PhilPapers: Online Research in Philosophy

    PhilPapers is a comprehensive index and bibliography of philosophy maintained by the community of philosophers. We monitor all sources of research content in philosophy, including journals, books, and open access archives. We also host the largest open access archive in philosophy. Our index currently contains 2,861,583 entries categorized in 5,907 categories. PhilPapers has over 350,000 registere

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