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思想とcommunicationに関するmn_krのブックマーク (7)

  • 他人の夢を否定する人

    昨日のエントリーへのコメントを読みながら思い出したのが、7−8年前にとある日の人に 「君の人生の夢は間違っている」 と言われたこと。 えーと、コンテクストを説明すると、その人は日でも割合有名なアントレプレナー(当時30代後半くらい、たぶん)で、その人と、当時スタンフォードとバークレーのビジネススクールに留学中(全員企業派遣)の男性3−4人と一杯飲んでいる、という設定。 結構熱く語るのが好きなアントレプレナーさんだったので、 「人生の夢はなにか?」 という問いかけがあり、全員が一言ずつ表明する、ってことになったわけ。 で、まず切り出したのがご人で 「社会貢献だ」 (私は、心の中で「げげっまじ?」っと思ったが、平静な顔で、なるほどなるほど、みたいにうなずいていた) で、次の男性君 「社会貢献です」 (私の心の声;「げげげっ、まじで?」でもふんふんと平静に聞く) 次の男性 「社会貢献です」

    他人の夢を否定する人
    mn_kr
    mn_kr 2009/09/07
    “「自由になることです」”っていう答えもどうだろう。自由というものは既に達成されているか、永遠に達成しないかのどちらかしかあり得ないもののような気がする。
  • コミュニケーションを重ねれば重ねるほどに、「寂しさ」は増幅する ~ ラカン初心者による、にわか仕込みのコミュニケーション「欲望」論

    えーと、そのまんまなんですけど(笑)。つまり個人に「コミュニケーションを取りたい」という欲望が発生するのは、周囲の人間がコミュニケーションを欲望しているからであって、完全に孤独な状況では、コミュニケーションへの欲望自体が発生しない。 そういえば昔、僕と彼女がレストランで事をしていたとき、特に話すこともなくなって、ふたりとも黙ったまま数分間が過ぎるという事があったんだけど、このとき彼女は急に不機嫌になって、「Masaoはなんで黙ってるんだ!」と怒り始めた。理由を聞いてみれば、「他の客は楽しそうに会話しながら事してるのに、うちらだけ黙ってる。仲悪いカップルみたいで嫌」とのこと。 でも、うちらはもう何年も付き合い続けているカップルだから、お互いが黙り合うというシチュエーションは、そんなに珍しいものでもなかったんだよね。 にも関わらず、このときに限って彼女が怒り出したのは、やっぱり「他の客は楽

  • 露天風呂から桜島 - 内田樹の研究室

    鹿児島での九州の高校の公民科の先生たちの集まりで講演。 鹿児島には梁川くんがいるので、90 年から後何度も訪れた。去年も鹿児島大学で講演して、黒豚をべて、美味しい泡盛を飲んだ。 今回は城山観光ホテルに投宿。宴会&露天風呂付きである。 講演がなければプチ・バカンス気分である。 あ、こういうことをフランス語の教師が書いてはいけないね。 「休暇」という意味の「バカンス」は通常複数形で用いられるから、あえて表記すれば petites vacances「プティット・ヴァカンス」で「プチ・バカンス」ではない。 フランス語の表記の間違いはたいへん多い。ほとんどすべての看板のフランス語は間違っていると言って過言ではないくらいだ。 家の近所に La Tour Blanc 「ラ・トゥール・ブラン」というレストランがある。 「白い塔」というつもりなのだろうが、tour は女性名詞であるから、これは La To

    mn_kr
    mn_kr 2009/08/09
    デノタシオン(語義通りの意味)とコノタシオン(文脈上の意味)|情報と情報化|“コミュニケーション不調がこれだけ起こるのは私たちの社会が「あまりにも豊かで安全」になったから”→ひとりでも生きていける社会
  • なぜ、KJ法は失敗するのか?:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 フィールドワークなどの調査で集めた質的情報を、俯瞰的視点と細部に踏み込んだ視点の両方を用いて包括的に分析し、分析結果をメンバー間でしっかり共有しておけるかが重要になります。 ある事実を観察したとしても、 事実を特定の視点による特定の角度からしか観察できないすべてを観察することができず一部のみしか観察できない観察者の意思が働いて、観察結果に事実そのままではない強弱ができてしまう観察者それぞれで異なる見方をしてしまうので、おなじ事実をみても観察者によって解釈が異なる ということが起こるので、観察した結果を、調査後、再度メンバー全員での分析作業により、上記の問題を補う必要があります。 多くの調査がこの分析作業を重視しないので、多くの事実が抜け落ちてしまったり、ゆがめられて解釈され

    mn_kr
    mn_kr 2009/07/25
    “KJ法で一番苦労するのは、この統合化の作業です。とにかく普段、思考の別化性能(違いで分ける)ばかりはたらかせている現代人は、似ているもの同士をつなげるという類化性能をはたらかせるのが苦手です”
  • 次のAmazonレビューを確認してください: デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

    素晴らしいが現れたものだ。デイヴィドソンは難解で、専門家以外にはその当の面白さがよく理解できない。彼の論文は、小さな技術的論点の検討から始まりながら、ある時点で突然視界が開けるような爽快感があるのだが、評者はこれまで「メタファー論」を除いてその魅力がよく分らなかった。その欠落感を書が埋めてくれた。 デイヴィドソンは、「まず人間がいて、そして言語がある」と考える。逆ではない。言語規約説や規範説など一切の「言語=実体説」をぶっとばして、「向かい合って発話を交換している私とあなた」(p91)という根源的場面に定位し、二人のコミュニケーションの道具として言語を捉える。絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある。 デイヴィドソンは、T文による「真理条件

    mn_kr
    mn_kr 2009/06/01
    “絵は対象と似ていなければ世界を表現できないが、文は、それが「真である」という一点で世界と結びつく。言葉は真でさえあれば、世界と似ていなくてもよいのだ。この自由さにこそ言葉の力の源泉がある”
  • 学院標語と結婚の条件 - 内田樹の研究室

    新学期が始まる。 6日に入学式。 飯新学長の「ことば」を聞く。 学長就任の挨拶でもそうだったけれど、学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基理念をつよく訴える内容であった。 この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。 でも、私はそう思わない。 これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。 私たちの社会がこの 20 年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。 「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。 学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。 それは具体的な教育プログラムのことではないし

  • 他人と関わるということ - 地を這う難破船

    ⇒http://d.hatena.ne.jp/tak_f/20081118/1227008984 ⇒荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaの日記 ⇒http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/pha/20081119/1227040596 他人と関わることと受け入れることは違う。引き受けることも違う。関わってみたけれど受け入れられなかった、引き受けきれなかった、というのは全然ありだと思う。厄介払いであったとして、『スモーク』ではないが、責めるべきこととはまったく思わない。関わってその厄介を知る相手はいる。関わらないとそのことがわからないのが他人だから、関わったのだと思う。 関わらないとわからない他人と関わってその厄介を知ることがなぜ傍から責められるか私にはわからない。他人と関わることの厄介をよく知って物心含めて最初に他人と

    他人と関わるということ - 地を這う難破船
    mn_kr
    mn_kr 2008/11/28
    “欧米人は普遍概念としての正義とその不可能を介して他者を見出すが、私たちは普遍概念としての正義を介することなくすぐ隣の人を直接模索して他者の確認へと至る。それは欧米人にとっての大文字なる「愛」ではない
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