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ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (27)

  • 「震災/原発事故後の「政治」」 - shinichiroinaba's blog

    『アルファ・シノドス ―“α-synodos”』vol.46(2010/02/15)、vol.81(2011/8/1)から転載。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇高木仁三郎氏に感じた「違和感」 今回の東日大震災は十分にひどい経験であった。いや、過去形にしてはならない。未だにそれは進行中である。 それは従来日が経験したほとんどの自然災害と異なり、その被害が局地的にコミュニティを破壊するだけにとどまらず、複数のコミュニティに同時に襲い掛かり、かつそれらを結ぶネットワークをも寸断した。 正直言ってぼくはロジスティックス、物流というものを舐めていた。1個単位で商品の動向を把握するPOSが象徴する物流システムの洗練に、すっかり油断させられていた。日を含めた先進国において、電子的なデータ通信ならともかく、ものの流通がこれほど深刻に滞り、人命を危機にさらすようなことが起こりうるとは、正直想像

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  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    あんまりぱっとしないな。 ======================== 以上のごとく考えるならば、ハーバーマスが「公共性の構造転換」と呼んだものは、どのように理解されるべきか。 非常におおざっぱに言えば、市民革命によって個人が解放され、19世紀は経済的にも政治的にも「自由な個人の時代」となったのに、20世紀は個人を圧殺する「組織の時代」となった――といった感じのストーリーがそこでは展開されているのだが、そこにはいくつかの難点がある。 経済において個人企業やパートナーシップから、株式会社を典型とする法人企業にその主役が移った、という議論自体は妥当性が高いが、それとともに自由な市場経済が独占資主義に移行し、市場の自己調整機能が低下した、というかつてのマルクス主義的な議論の方の根拠は薄弱である。 また政治において政府の官僚制のみならず、政党組織それ自体の官僚制化が深化したことは確かであるが

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    reds_akaki
    reds_akaki 2012/01/26
    ケインズ政策マネタリズムまで含めたマクロ経済政策は計画経済や産業の公有化などとは厳密に区別されるものであり、市場への介入や統制というよりは私有財産制度の維持などと比肩されるべき市場制度そのものの下支え
  • 復習 - shinichiroinaba's blog

    ハンナ・アレント的、あるいは藤田省三的な意味での「全体主義」概念を軸として、自分のこれまでの規範理論的な作業を振り返ると、以下のようにまとめられる。 『リベラリズムの存在証明』においては、非常に強い意味でカント的な――「独我論者同士の相互承認と連帯」としてのリベラリズムは、アレント的な意味での全体主義に抗しうるか、と問いかけたうえで、否定的な解答を出さざるを得なかった。すなわち、いったん成立した全体主義体制を、その内側から突き崩すような力を、リベラリズムという社会編成原理は持ちえない、と。 それに対して約10年後の『「公共性」論』では、問いのレベルと方向がずらされた。相変わらず、アレント的な意味での全体主義に対して、リベラリズムは実践の原理としては無力である。しかしここでは、まさにそのことをもってして、全体主義は否定されるべき原理であることが明確とされる。逆に言えば『存在証明』では、「全体

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  • たとえばアレントの言う意味での「政治」とは何か - shinichiroinaba's blog

    について、アレントを直接には一顧だにせず、古典期ギリシア・ローマの一次資料に即して行われている木庭顕の仕事を参考にして考えてみるとどうなるか。 木庭によれば古典期ギリシアのポリス社会、そこでのデモクラシーと、共和政ローマは意外なほど近しい。共和政期のローマは明確にデモクラシーに到達していたのであるし、そこでの貴族と民衆との対立、あるいは元老院と民会といった階層構造の対応物は、しばしば「直接民主政」とくくられてしまうギリシアのポリスにも存在する(評議会と民会)。 そしてローマにおける「法」は、いわゆる(後の)公法(に対応するもの)のみならず、後世のいわゆる「ローマ法」の核心をなすところのいわゆる「私法」「市民法」まで含めて、あくまで、政治システムの一環、古典期ギリシア・ローマ的な意味での「政治」の延長線上にある。 アレントらのいうところの公と私の厳然たる区別、そしてあくまで公的な営為として古

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    reds_akaki
    reds_akaki 2011/03/02
    ローマに於てこうした小物たちの独立の根拠とされていったのは何であるのか? 木庭の見る処それは「(所有では無く)占有Possessio」である。生存を支える為の何らかの資源を占有する事を以て独立の根拠となすのである
  • 〆切が迫っているのだが - shinichiroinaba's blog

    別のことを考える。 佐藤亜紀がなぜあれほど小松左京を持ち上げることに対して苛立っているのか。それにはちゃんとした理由がある。それはおそらく、伊藤計劃について小松左京、そしてとりわけ山田正紀の影響を指摘した発言に対する反発とも関係がある。 件のtweetで小松左京についてはひととおりのことはすでに佐藤は語っているし、更に笠井潔の若書きの小松左京論への苦笑交じりの肯定的コメント(発見できなかった。佐藤氏のブログの検索機能はどうなってるんだ)もなんとなくわかるのだが、山田正紀についての強い拒絶と軽蔑はどこからくるのか。山田正紀が「残念な作家」であるということについては、少なくとも80年代までに限っては同意する(その後は読んでいないので衡平な判断はできない。『機神兵団』ラストについては腰が抜けた)が、彼の残念さ(『終末局面』や『幻象機械』のとほほなオチに代表される)がどこに由来するのか、そこに深堀

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  • なぜ私はローマ法にろくな素養もないのに突撃をかけようとしているのか - shinichiroinaba's blog

    自分でもよくわかっているわけではないのだがたとえば(これはあくまでも一例でしかない、自分はホームレス問題について深刻な関心を持ってはいない)、ホームレスの公園「占拠」を巡る事件において、事実としてではなく権利としての「占有」の意義が下手をすれば浮上しかねない、といった話が妙に頭の隅に引っかかっている。 そして木庭顕先生は、あろうことか「法の核心は占有にあり」ととんでもないことをおっしゃる。世界のどこにでも普遍的にある広い意味での「法」ではなく、今日の我々の実定法、市民法と司法のシステムとそれを支える学理としての「法」の核心は、もちろん「人権」などではないがさりとて「所有」でもなく、今やほとんど死にかけてその意味も見失われている「占有」である、と。しかしそのことはローマ法、それも「所有」概念とともに爛熟期を迎えた帝政期のではなく、共和政期のそれを見なければわからない、とも先生はおっしゃる。

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  • 2011年1月17日付学科主任挨拶「入試の意義」 - shinichiroinaba's blog

    http://soc.meijigakuin.ac.jp/gakka/?cat=36 はいずれ消えますから。 ================ お久しぶりです。 来であれば今日は、年度の初頭にアップしたご挨拶でお約束していたお話の続きをするべきなのですが、期間も空きすぎましたし、ちょうど入試シーズンに格的に突入いたしましたので、受験生の皆様に「そもそもなぜ大学は入学試験をするのか」についてお話ししておきたいと思います。 「大学全入時代」に入ったといわれて久しく、受験生の皆さんもたとえば「Fランク大学」、つまり志願者の数が入学定員を下回ってしまって、入学を希望しさえすれば確実に入学できる大学も世の中にはあることはご存じのことと思います。つまり、当たり前の話ですが、大学その他の学校において、入学試験が行われるのは、入学定員を志願者の数が大きく上回ってしまって、入学希望者全員を受け入れること

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  • ゾーニングあれこれ - shinichiroinaba's blog

    ゾーニングというか規制というか。 法治国家においては「そういうことするやつが少数ながら出てきてしまうことは仕方ないし根絶するわけにも行かないから何とかコントロールしたい」というときに大雑把に言って二つのやり方があって。 ひとつは正面から「そういうこと」を禁止するやり方。もうひとつはいわゆる「ゾーニング」、「悪場所」を作って「そういうこと」を囲い込むやり方。 後者は「法の下の平等」を旨とする法治国家にはなじみにくい。要するにこれは身分制の論理。「そういうこと」をしていい場所、していい人々を一般社会とは区別するという発想。これは囲い込まれた営み、そして人々に対する「差別」である一方、被差別者への「特権」の付与でもありうる。 おおっぴらに身分制であることを標榜し人々がそれを受け入れている社会においてならともかく、現代の法治国家、単一身分の市民社会にこのような身分的構造を持ち込むことは相応の緊張を

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  • 都立青山高校模擬授業「社会学入門の入門」 - shinichiroinaba's blog

    またしても用意したレジュメと全然関係ないことをしゃべったよ。即興でしゃべったことを基にここに書いておくよ。 ========== 社会学は経済学政治学と並んで「社会科学」の仲間とされますが、日の大学では大体社会学科は(もちろん、社会学部のないところでは、ですが国公立大学にはほとんど社会学部はありません)文学部に配置されています。なぜこうなっているのかといえば、社会学部は他の社会科学と比べて「主観」、人間の主観的な意識、心をその焦点とするからです。 経済学をはじめとして他の社会科学は「客観」的現実に照準を合わせますが、社会学はこれを無視するわけではないにせよ、人間がそうした「客観」的現実をどう「主観」的に経験し、その経験から「客観」的現実にはたらきかけていくか、を主題とします。その意味で人間の「主観」に照準する文学や人文学と共通するところが大きいのです。 文学部では文学、歴史学、哲学、心

  • 「公共政策論」メモ(続) - shinichiroinaba's blog

    少なくともここでわれわれは、古代人や中世人においては、民主政的なそれには還元しきれない、政治的な正統性の観念があったことを確認しておかねばならない。そして民主的ではなくとも、正統な支配の下では自由人はその自由を奪われたことにはならない、と観念されていたらしいことがわかる。たとえば古典古代以来、西洋において正統性を欠いた支配に対して与えられた由緒正しい名としてわれわれは「僭主制」なる語を知っている。古代ギリシア以来、もっぱらその「実力(暴力、知略等々)」でもって支配者の地位に着いた者は「僭主」と呼ばれてきたが、「僭主」が批判されたのは、それが民意に基づかない独裁者だったからではない。その支配者としての地位がむき出しの「実力」にのみ支えられていて、民主的なそれであれあるいは王朝的なそれであれ、正統性を欠いていたからである。 あるいは、これもまた古代ギリシアにさかのぼれるものであるが、「東洋」と

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  • 「公共政策論」講義メモ - shinichiroinaba's blog

    量産型天才を羨んでも仕方ないのでとりあえずしこしこ。まあデイヴィドソンが開花したって50過ぎだし。 実際のところ、これまで大して勉強してきたと思えないし、まだまだ勉強したいのに、新しく勉強する暇がなくて、むしろこれまで蓄積したものを整理し秩序付けてアウトブットするだけで日が暮れますですよ。 =================== 「公共政策public policy」というのはちょっと奇妙な言葉遣いに聞こえる。何となれば、「政策」とは国家ないしそれに類する(地方公共団体、国際機関、NGO等)の公的機関、公共の利益を目標とする機構を主体とした営みであるのだから、およそすべての政策は「公共政策」だということになりはしまいか? 公的機関ではない民間の主体、とりわけ営利企業の営みにおいては「経営」「管理management」といった言葉がよく用いられる。政府の統治行為、行政が「経済政策」「社会政策

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    reds_akaki
    reds_akaki 2010/10/02
    は政治経済の略ではなく「政治の経営」
  • リベラルな教育? - shinichiroinaba's blog

    「「リベラリズム教育学」というものは存在しえないのではないか」と以前研究会で話したことがある。 無償かつ強制的な公教育というものについて考える。リベラル教育というものはこのような公教育を肯定し、なおかつその内容については統制を可能な限り廃しようという立場だが、それは「思想」として一貫したものであるかどうかは疑わしい。 「共和主義」だの「共同体主義」だのにおいては、無償かつ強制的な公教育は当然に容認どころか要請される。人は有徳な者へと規律訓練されねばならない。そしてその世界ではある意味堂々と人は差別され、格付けされる。人はひとかどのものに――少なくとも「一人前」にならねばならず、そうなれなければ蔑視される。 リバタリアンな、あるいはアナーキーな社会においては、公教育の意義は基的に否定される。人はそのままで尊厳ある存在として承認される――「一人前」でない者などいない――のであり、強制による

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  • 「”話題の哲学者”マイケル・サンデルを読み解く」『Voice』8月号 - shinichiroinaba's blog

    Voice (ボイス) 2010年 08月号 [雑誌] 出版社/メーカー: PHP研究所発売日: 2010/07/09メディア: 雑誌購入: 1人 クリック: 1回この商品を含むブログ (1件) を見る 『諸君!』のときのようなカッ飛んだタイトルにはなりませんでした。

    「”話題の哲学者”マイケル・サンデルを読み解く」『Voice』8月号 - shinichiroinaba's blog
    reds_akaki
    reds_akaki 2010/07/12
    id:shinichiroinaba。私は、仲正昌樹も含め諸君!に出る事それ自体が悪い、と謂った事は一度も在りません。表紙を見て目の前が真っ暗になったよd:id:reds_akaki:20051112#p1と云う表題でも本文では読んだ中身の内容を批判しています
  • 『現代思想』「ベーシック・インカム」特集の岸君の論文への感想@mixi - shinichiroinaba's blog

    を転載します。 なんだか最近ついったで部落研究における文化主義についていろいろ慨嘆されていたので。 - shinichiroinaba | 自分のコメントを削除する 2010年05月09日 15:11 微妙にあちこちの顰蹙を買いそうな内容ですね。 最近「分配する最小国家」はぎりぎり可能だとしても「冷たい福祉国家」はありえへんような気がしてきた。 どんなに豊かな社会にも落ちこぼれた少数の不幸な人々は存在し、マクロ経済政策やベーシックインカム型のルール型・普遍的制度設定型政策はそうした人々を減らす役には立っても、そうなってしまった人をケアする役には立たない。どうしても誰かが「権威」を背負って押しつけがましく時に暴力的な「ケア」、つまりフーコー的にいう「統治」を担わないわけにはいかない。 というと福祉プロパーや左翼からBIに流れてきた人は嫌な顔をするだろうか。

    『現代思想』「ベーシック・インカム」特集の岸君の論文への感想@mixi - shinichiroinaba's blog
    reds_akaki
    reds_akaki 2010/07/01
    ですから>「権威」を背負って押しつけがましく時に暴力的な「ケア」つまりフーコー的にいう「統治」を担 うのは中間集団の役目という考え方が伝統的にあり新自由主義はそれをabuseしているのです
  • 「某保守系論壇誌」 - shinichiroinaba's blog

    というのは『Voice』のことです。7月発売のやつ(8月号?)にのります。

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    reds_akaki
    reds_akaki 2010/06/24
    そりゃあ正論やWILLだとは誰も思わないわな
  • お買いもの - shinichiroinaba's blog

    映画式まんが家入門 (アスキー新書) 作者: 大塚英志出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス発売日: 2010/05/07メディア: 新書購入: 4人 クリック: 15回この商品を含むブログ (13件) を見る 前半は歴史研究。大学でもこんな風に教養と実技を合わせた教育をしているのか。 伊勢佐木町の古屋にて; 「精神分析的子ども」の誕生―フロイト主義と教育言説 作者: 下司晶出版社/メーカー: 東京大学出版会発売日: 2006/12メディア: 単行 クリック: 5回この商品を含むブログ (15件) を見る野蛮から秩序へ -インディアス問題とサラマンカ学派- 作者: 松森奈津子出版社/メーカー: 名古屋大学出版会発売日: 2009/04/30メディア: 単行購入: 2人 クリック: 35回この商品を含むブログ (7件) を見る模倣の法則 作者: ガブリエルタルド,Jean‐Ga

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    reds_akaki
    reds_akaki 2010/05/21
    現在、「大塚英志の漫画家入門」というコーナーで、自作テキストを送料のみで配布されています(まだ700部以上残っていると愚痴ってました)。
  • 「占有」って何? - shinichiroinaba's blog

    遠藤著を読んでいると、「占有権」というものをどう考えるかというのが実は民法上のみならず憲法上もすごく重要であるような気がしてきたのだが……。 結局のところ人権というのはある種の身分のことに他ならず、身分というのは財産と不可分である。(身分とは単なる人の地位のことではない。生態学的な言い回しを使えば「ニッチ」であり、つまりはその地位ゆえに利用可能となり、その存在を支える社会的・自然的な資源−−つまりは排他的所有物をその典型とする「財産」とのセットなのだ。) 自然権としての人権という概念に危うさがあるとすれば、人権を支えるこの意味での財産とは何なのか、が見えにくいところにある。『「資」論』での拙論を延長すれば「労働力=人的資」がそれだということになるのだろうが、やはりそれではどうにもパンチに欠ける、というか足りない。 そこで居住権を含めた占有権ということについて少しまじめに考えてみた方がよ

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  • 楳図かずお『わたしは真悟』完全版 - shinichiroinaba's blog

    わたしは真悟 1 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11) 作者: 楳図かずお出版社/メーカー: 小学館発売日: 2009/12/26メディア: コミック購入: 1人 クリック: 29回この商品を含むブログ (24件) を見るわたしは真悟 2 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11) 作者: 楳図かずお出版社/メーカー: 小学館発売日: 2009/12/26メディア: コミック購入: 1人 クリック: 25回この商品を含むブログ (11件) を見るわたしは真悟 3 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11) 作者: 楳図かずお出版社/メーカー: 小学館発売日: 2010/01/29メディア: コミック クリック: 3回この商品を含むブログ (7件) を見るわたしは真悟 4 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 11)

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    reds_akaki
    reds_akaki 2010/03/02
    うーん5,6巻あたりってなんかもう完全に現行の単行本・文庫版と違う話になってない? これは雑誌掲載時に戻したということなのか、それとも未発表原稿も加わっているのか。
  • 吉田秋生『海街Diary3 陽のあたる坂道』(小学館) - shinichiroinaba's blog

    海街diary 3 陽のあたる坂道 (フラワーコミックス) 作者: 吉田秋生出版社/メーカー: 小学館発売日: 2010/02/10メディア: コミック購入: 22人 クリック: 305回この商品を含むブログ (173件) を見る 同世代のまんが読みはみんな読んでるっぽいこのシリーズ、たしかに著者の円熟の境地を示す傑作となりそうな予感がする。ものすごく繊細でかつ広がりのある世界が描かれている。やがては陰のヒロインたるアライさんも、『よつばと!』のヤンダのように何の気なしに登場してくるはず。 思えば『BANANA FISH』連作って、道具立てばかりでかくても、ものすごい狭い世界だったよな……。宇野常寛君は『BANANA FISH』連作の吉田を「転向」と捉えていたけど、その伝で行けば『海街』で彼女は回帰ないし再転向したということになるけど、実際どうしてあのシリーズを書いたんだろう。 あと最近「

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    reds_akaki
    reds_akaki 2010/02/23
    宇野常寛君はBANANA FISH連作の吉田を転向と捉えていたけどその伝で行けば海街で彼女は回帰ないし再転向したという事になるけど実際どうしてあのシリーズを書いたんだろう。あと最近藤田和日郎のどこが間違っているのか
  • 12月13日シノドスセミナー・メモ - shinichiroinaba's blog

    お客様の半分以上が編集者ってどういうことなの……。 ついでになぜか仁平典宏さんが来ていました。 配布はしなかったものの用意しておいたメモに基き、当日しゃべったことのアウトラインを公開します。 ========= 社会学の居場所              稲葉振一郎 1 なぜ拙著『社会学入門』は『社会学という教養』というタイトルにならなかったのか? → ベタベタで洒落にならないから避けた。 → なぜ「社会学」は「教養」と親和的なのか? 社会学は人文(科)学か(社会)科学か? 人文(科)学とは何か? 社会学の対象=社会的に共有された意味の体系 社会学の野望=その(変容可能性の)一般理論 →それは不可能である。 ではこの野望はナンセンスだったのか? No and yes. 2 「工学」――既知の法則一定との仮定の下、今後の状況を積極的に予測・構築 「科学」――状況の定常性の仮定の下、その背後の未

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