コンテンツの総量と消費者の限界を考えた場合 作品及びその制作にかかる労力が軽視されるのはいたしかたないことでもある。 現時点でコンテンツそのものが供給過多であり、既に値がつかない状況に至っているにもかかわらず 企業だけでなく個人までもこぞってコンテンツを発表し、飽和状態の市場に供給しつづける。 そもそも消費者としての個人が観賞し得るコンテンツの数など総量からすれば微々たる物だし 消費した結果その量や質が変化するわけでもない。 結局のところ、価格をつけることができるようなものではなかったのだ。 消費者はコンテンツをぞんざいに扱うことができる。 もしコピーが氾濫する状況に疲れ、制作を止める供給者が何人かいたとしても消費者にとってマイナスにはならない。 代わりのコンテンツはいくらでも存在するのだ。消費しきれない程。 むしろ手を止めた製作者の存在に気づくことさえないのかもしれない。 コンテンツなど
![コンテンツの総量と消費者の限界を考えた場合](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b1638cdb5807a4788e4ba3c1109a984166e095fc/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2Fimages%2Fog-image-1500.gif)