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ブックマーク / electronic-journal.seesaa.net (7)

  • ●「そのとき艦長はどうに対応したか」(EJ第3488号)

    このところ週刊誌などでは、「日中もし戦わば」的な記事が多 くなっています。これらの情報を踏まえて、中国が現在何を考え ているのか整理してみることにします。 2001年4月1日のことです。南シナ海北部の島である海南 島上空の公海上を米海軍所属の電子偵察機EP3Eが飛行してい たのですが、中国の人民解放軍海軍航空隊の戦闘機J─811が 異常接近し、空中衝突する事故が発生したのです。 このときブッシュ米大統領は、ホットラインで江沢民国家主席 と直接連絡を取ろうとしたのですが、江主席は逃げ回り、約8時 間にわたって電話に出なかったのです。 現場の暴走に上層部がパニックになり、思考停止に陥ったので す。おそらく江主席は、問題をどう処理してよいか分からず、幹 部を集めて対応を協議して、時間がかかったものと思われます。 実はこのとき米中間では緊張が高まっていたのです。1999 年のコソボ紛争でNATO軍

    ●「そのとき艦長はどうに対応したか」(EJ第3488号)
    zyesuta
    zyesuta 2014/02/22
    ●「そのとき艦長はどうに対応したか」(EJ第3488号)  このところ週刊誌などでは、「日中もし戦わば」的な記事が多 くなっています。これらの情報を踏まえて、中国が現在何を考え ているのか整理してみること
  • ●「中国軍の西沙諸島実効支配に学ぶ」(EJ第3492号)

    今後中国が尖閣諸島に対してどのようなかたちで関与してくる かを予測する貴重な資料があります。それは、西沙諸島をめぐる ベトナムと中国の争いを元海上自衛隊海将補の川村純彦氏らが中 心になってまとめた資料です。 西沙諸島とは、南シナ海北方海域に浮かぶ多数のサンゴ礁の小 島です。西沙諸島は1954年の第一次インドシナ戦争によって 旧宗主国のフランスが去り、西部(永楽群島)は、ベトナム共和 国(南ベトナム)、東部は中国が実効支配をしていたのです。 しかし、1971年になると、中国軍が西沙諸島に艦隊を派遣 し、多数の施設の建築を行ったことにより、ベトナムと中国の間 で軍事的緊張が高まったのです。 当時南ベトナムでは、ベトナム戦争が末期になっており、かな り追い詰められていたのです。1973年には、パリ協定に基づ き米軍が南ベトナムから全面撤退し、わずかな軍事顧問が残る程 度になっていたのです。中国

    ●「中国軍の西沙諸島実効支配に学ぶ」(EJ第3492号)
  • ●「東郷和彦氏による領土交渉3原則」(EJ第3426号)

    は3つの領土交渉を抱えている国です。ロシアに対しては 北方領土、中国に対しては尖閣諸島、そして韓国に対しては竹島 ──この3つがあるのです。しかし、この問題に対処する外務省 には領土交渉を行うさいの基原則がないといわれます。 その基原則について、東郷和彦氏は次の3原則で領土交渉を 行うべきであると提案しています。 ――――――――――――――――――――――――――――― 第1原則:領土の現状を変更しようとする国は力によって行 動してはならない 第2原則:実効支配している国は、相手国との話し合いには 応じるべきである 第3原則:両国が知恵を出して、衝突にいたらないようなメ カニズムを考える ──保阪正康・東郷和彦共著 『日の領土問題/北方四島、竹島、尖閣諸島』 角川ONEテーマ21刊 ――――――――――――――――――――――――――――― 日は尖閣諸島を実効支配していますが

    ●「東郷和彦氏による領土交渉3原則」(EJ第3426号)
  • ●「惨敗に終わった小泉・プーチン会談」(EJ第3420号)

    どうして小泉首相は、ロシアのプーチン大統領を挑発したので しょうか。 いずれにしても、2004年9月2日(ロシアから見て対日戦 争終結記念日)に小泉首相が海上保安庁の巡視艇に乗って失われ た領土を視察に行ったのは、けっして偶然ではないのです。小泉 首相としては、プーチン大統領に対して何らかのメッセージを送 りたかったのだと思います。 なぜ、9月2日だったのかについては、もうひとつの要素があ ります。それは、9月1日から3日にかけて起こった「ベスラン 学校占拠事件」です。ロシアの北オセアニア共和国ベスラン市の ベスラン第一中学校が、チェチェン共和国の独立派を中心とする 多国籍武装集団に占拠されたのです。 事件は悲惨な結果に終りました。7歳から18歳の少年少女と その保護者1181人が人質になり、3日間の膠着状態に陥った 後に治安部隊との銃撃戦になり、制圧はしたものの、386人が 死亡し、70

    ●「惨敗に終わった小泉・プーチン会談」(EJ第3420号)
  • ●「プーチン大統領を挑発した小泉元首相」(EJ第3419号)

    小泉純一郎首相とプーチン大統領──この2人の関係は非常に 複雑です。もともとは仲が良かったのですが、北方領土をめぐる 外交交渉では、完全にプーチン氏と噛み合わなかったのです。 森首相とプーチン大統領によるイルクーツク声明によって、ロ シアとの領土問題は一挙に進むという期待感があったのです。し かし、森首相に代わって登場した小泉首相の時代になると、領土 交渉は暗転して元の硬直状態に戻ってしまったのです。2人の関 係を探って、その原因を追究することにします。 2000年にロシアにプーチン政権ができると、日では次の 年に小泉政権が誕生します。2001年4月26日のことです。 2002年6月のことですが、カナダでカナナスキス・サミット が開催され、その席で小泉首相はプーチン大統領からある頼みご とを受けるのです。 ――――――――――――――――――――――――――――― 実は、2003年のサン

    ●「プーチン大統領を挑発した小泉元首相」(EJ第3419号)
  • ●「小泉政権で北方領土解決方針を変更」(EJ第3418号)

    イルクーツク声明時のプーチン大統領は、日との領土問題を 気で解決しようとしていたと思います。なぜなら、今後ロシア が経済的に発展していくためには、日の協力が不可欠であると プーチン大統領が考えているからです。 そのためには、日ロの間に刺さった骨を抜いて、領土問題を解 決し、平和条約を締結する必要がある──プーチン大統領はこの ように考えているのです。彼は今までのロシアのトップとは明ら かに違うタイプの大統領であるといえます。 この思いは、首相を経て再び大統領になった現在でも、変わっ ていないと思います。ただ、ひとつ大きく変わったことがありま す。それは、イルクーツク声明当時とは比べ物にならないほど、 プーチン氏の政権基盤が弱くなっていることです。足元が盤石で はなくなってきているのです。アンチ・プーチンの勢力が拡大し てきているわけです。 イルクーツク声明のとき、森喜朗首相(当時)が

    ●「小泉政権で北方領土解決方針を変更」(EJ第3418号)
  • ●「世界中から非難のマトの記者クラブ」(EJ第2840号)

    記者クラブの中で最もプライドの高いのが、司法記者クラブと 財研(財政研究会)記者クラブであるといわれます。すなわち、 財研の記者クラブとは、財務省の記者クラブのことです。 財研記者クラブは、国内の主要新聞、放送、通信社のほか、海 外メディアも所属しています。「財研」の略称で知られ、各社の 経済部エリートが集い、経済記者の中でのステータスはきわめて 高いのです。彼らの主張は大蔵省時代から一貫して官僚と同じ財 政規律至上主義が多く、財政危機や巨大公共事業反対の論調はこ こで作られるのです。業界紙などによる別の「財政くらぶ」とい う団体も財務省内に存在しています。 以下は、この財研についての亀井前金融相と上杉隆氏との対談 の一部です。 ――――――――――――――――――――――――――――― 亀井:財研に所属する記者クラブの記者たちは、財務省の大 営発表にコントロールされて、その感覚でしか予

    ●「世界中から非難のマトの記者クラブ」(EJ第2840号)
    zyesuta
    zyesuta 2010/06/23
    なるほど
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