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反原発に関するyomimonoyaのブックマーク (3)

  • 瓦礫受け入れ問題を考える - Arisanのノート

    『「災害廃棄物を東京で焼却すること」について』(今日、考えたこと) http://tu-ta.at.webry.info/201111/article_4.html この災害廃棄物(瓦礫)の引き受けの問題は、ぼくにも答えの分らない問題だ。 言えることは、東京や大阪など、各地が汚染された瓦礫を引き受けないことによって、福島では、汚染のなかで暮らし続ける人たちが存在し続ける、被曝の危険性が、より一層増すであろうということ、その事実を直視するべきだ、ということである。 だがそれは、東京などが、瓦礫を引き受けるべきだ、ということではない。 ぼくは、小倉さん(たち)の主張には、やはり同意できない。 ではどうするのか、被曝の危険のなかに、福島の人たちを置き続けるのか。 答えに窮するのだが、しかし同時に思うのは、こういう問いそのものが、原発という不正義・暴力によって、ぼくたちに押し付けられた、まったく不

    瓦礫受け入れ問題を考える - Arisanのノート
    yomimonoya
    yomimonoya 2011/11/19
    「だがその苦しさに耐えることによってしか、「原発」や「分断」を強いてくる不当な力の外に、本当に出ることは出来ないのではないかと思う」その“苦しみ”のねじれた痛みへの想像をこそ。
  • 弔いと生政治 - 過ぎ去ろうとしない過去

    関西で行われている反原発デモのひとつに、「葬送デモ」なるものがあるらしい。福島において被曝による被害が近い将来多発するであろうことを、「葬送」という形で可視化し、問題提起を行うというコンセプトのデモのようだ。 このデモについては、ネットを中心に賛否両論が巻き起こっている。批判の中心は、やはりそれが「不謹慎」であるということだ。福島に住んでいる人たちをあたかも棺桶にいれるかのようなデモは、当地の人々を傷つけるのではないか? このような批判に対して、主催の一人であるS氏が応答を行っている。 http://nonuke-savelife.tumblr.com/post/12855881354 この文章でS氏は、葬送デモが不謹慎である可能性、誰かを傷つける可能性があるかといえばあると認めている。しかし、だからといってこの表現はなされるべきではなかったということにはならない。わたしたちは放射能に対し

    弔いと生政治 - 過ぎ去ろうとしない過去
    yomimonoya
    yomimonoya 2011/11/17
    「「場所」が客観的に死ぬなどということはありえない。「場所」は人がそう宣言したときに死ぬ。逆に言えば、人が「場所」を殺す」
  • 『さよなら原発六万人集会 武藤類子さんのスピーチ』

    9月19日に行われた「さよなら原発集会」。 主催者発表では六万人もの人が集いました。 そこで、スピーチを行った、「ハイロ(廃炉)アクション福島原発40年実行委員会」の 武藤類子さんのスピーチがとても感動的ですので、 この私のブログでもぜひご紹介したいと思いました。 お時間のある方は録画のほうもぜひご覧下さい。 http://rubese.net/twisoq/target.php?tag=%E5%8E%9F%E7%99%BA&id=115836695051636736 (他の方のスピーチもご覧いただけます) 以下書き起こし。 =================== 福島の皆さん、どうぞ立ち上がってください。 今日は福島県内から、避難先から、何台もバスを連ねて、 たくさんの仲間と一緒にやってまいりました。 初めて集会やデモに参加する人もたくさんいます。 それでも福島原発で起きた悲しみを伝え

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