シリアで取材中に政府側の攻撃で殺されたとされる日本人記者・山本美香については、その死を悼む声があちこちで流されている。いかにも、「戦争の真実」を伝え続けて来た素晴らしいジャーナリストの死は惜しい、といった論調のコメントがだ。だが、果たしてそれは本当か? 率直に言って、筆者は山本美香が元アジアプレス出身だという履歴に大変な個人的嫌悪感・偏見を感じる。それもアジアプレス社長の野中章弘から高く評価されていた上に、今回の件でアジアプレス関係者が一斉に追悼の意を表明している事から、退社独立後も古巣との関係は良かったのだろう。もちろんそれはこの女の報道スタンスが、退社後もアジアプレスと親和性が高かった事を意味しており、それこそ筆者が彼女にある種の偏見を抱く大きな原因だ。だが、それを抜きにしても直感的に大変な胡散臭さと違和感が感じられて仕方がなかった。 その胡散臭さと違和感の原因の一つは、山本美香の死と
孟子の弟子の万障が師にたずねた。 「孔子は陳においでになった時、 『なんぞ帰らざる、 わが党の士は、 狂簡(簡は大の意)にして進取、 その初めを忘れず。』 (「論語」[公治長篇]にほぼ同様の言葉がある) とおっしゃいましたが、 どうして魯(孔子の生国、「わが党」)の、 狂士のことなど思われたのでしょうか?」 「孔子は《中道》の人を求められたのだが、 それが得られぬから、 それに次ぐ狂狷の人を求めたのだ。」 万障はつづいて[狂][狷]の説明を求める。狂とは、志大きくて「古の 人、古の人」と口ぐせのようにいって徳を慕うが、行いがそれについて ゆかぬ者のこと、中道すなわち中正な行いの人には及ばないが、それに 次ぐ得難い人物である。狷というのは、積極性に欠けるが、よこしまな 行いはしない者のことで、これも凡人にはなかなかできないことで、狂 者につぐ者である。――
数千人の農民や自由党員が集結し、蜂起した椋神社=秩父市下吉田100周年を記念して建立された秩父事件記念像=秩父市下吉田の椋神社境内 TBSテレビが今年2月に放映したドラマ「菊池伝説殺人事件」をめぐり、秩父事件研究顕彰協議会(事務局・小鹿野町)の鈴木義治会長らが「秩父事件や人物を『火つけ強盗』のように、ゆがめて描いている」として、同局に抗議していることがわかった。同局は「あくまでもフィクション」との姿勢だ。 推理作家の内田康夫さんの同名小説をドラマ化した。背景として登場するのが秩父事件(1884年)や、長野県北相木村から参加した秩父困民党参謀長の菊池貫平(1847〜1914)だ。 1985年に設立の同協議会は、秩父事件の研究・顕彰や記念集会開催、出版活動などを続けている。会員は約200人。鈴木さんは「協議会だけではなく、多くの秩父事件研究者の研究を否定するドラマであり、見過ごせない」と
内閣参与に任命された東大教授の小佐古氏は、原爆症認定集団訴訟で国側証人として出廷し、<被爆者の病気は放射線によるものではない>と証言した人物。内部被爆の影響が極端に過小評価され、被ばくによる健康被害を認めない流れがつくられることを憂慮します
『100万回生きたねこ』で知られる絵本作家でエッセイストの佐野洋子さんが5日午前9時54分、乳がんのため亡くなった。72歳だった。葬儀は近親者のみで執り行い、後日、お別れの会を開く予定。 佐野さんは1938年、中国・北京生まれ。武蔵野美大デザイン科を卒業後、1967〜68年にかけてベルリン造形大学でリトグラフを学ぶ。帰国後はデザイン、イラストレーションなどの仕事を経て、『やぎさんのひっこし』で絵本デビューした。2003年紫綬褒章受章、2008年巌谷小波文芸賞受賞。 人生や愛について綴った『100万回生きたねこ』(1977年/講談社)は子供から大人まで親しめる図書として178万部のロングセラーとなっており、海外絵本の訳本もある。そのほか、主な著作に『おじさんのかさ』(講談社/産経児童出版文化賞推薦)、『わたしのぼうし』(ポプラ社/講談社出版文化賞絵本賞)、『ねえ とうさん』(小学館/日本
■アメリカでの出会い 1974、5年頃アメリカに留学していたのですが、ある日たまたま映画館にふらっと入って観たのが、 ディバイン主演の映画「ピンク・フラミンゴ(写真@)」でした。 何の先入観も予備知識も無く観たので、「なんじゃこりゃ?! こんな映画があるのか!!」という衝撃をガーンと受けました。 この頃はアンディ・ウォーホールに代表されるポップアートが色んなジャンルから出てきて、 70年代のアメリカ全体が一連のムーブメントの中にありました。 この映画はとても強烈な内容なのですが突然変異的に出てきたのではなくて、当時のアメリカ文化から自然発生してきたものだったので、 余計面白かったんですよね。 僕はアマノジャクでして、世の中の予定調和をどうやって壊そうかっていう、テーマみたいなものが常にあります。 そしてディバインというキャラクターを、いつの日か自分なりに表現してやろうと思っていました
映画監督 山中貞雄 作者:加藤 泰キネマ旬報社Amazon『映画監督 山中貞雄』(加藤泰 著、(株)キネマ旬報社、1985)を読み終えた。 山中貞雄の甥でやはり映画監督であった著者が、膨大な資料収集と関係者へのインタビューを経て、8年がかりで書き上げた労作である。山中貞雄論の中でも、映画に入れ込んだ一人の若者としての山中貞雄と、彼を取り巻く1920〜30年代の「カツドウ屋」たちの熱気に満ちた交友関係を、ここまで生き生きと描いたものはおそらく他にはないだろう。*1 山中貞雄が映画人として生きた時代は、恐慌と戦争の時代だった。 1928(昭和3)年に治安維持法の改悪で思想言論の自由が制限され始め、企業の倒産や首切りが相次いで昭和恐慌が厳しさを増す中、1929(昭和4)年10月のニューヨーク株式市場暴落をきっかけに世界的大恐慌時代に突入する。小津安二郎の『大学は出たけれど』が公開されたのはこの頃
今敏監督が亡くなられた。 戦前から戦後へ駆け抜けた架空女優一代記である映画『千年女優』には終戦特別番組に関連して思うところがあり、今回の報を全く知らない数日前にも見返しており、いずれエントリを上げるつもりだった。 http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010082501000521.html 2006年のベネチア国際映画祭に出品された映画「パプリカ」などで知られるアニメーション映画監督の今敏0件さんが24日午前6時20分、膵臓がんのため死去した。46歳。北海道出身。葬儀・告別式は親族のみで執り行う。喪主は妻京子さん。 武蔵野美術大に在学中の1985年、漫画家としてデビュー。90年ごろからアニメ映画の製作にかかわり、人情喜劇やサスペンス、ファンタジーなど幅広い作風で「パーフェクトブルー」や「東京ゴッドファーザーズ」などの作品を発表。文化庁メディア芸術祭大賞受賞の
数学者の森毅氏が亡くなった。 朝日や毎日の記事を読むと、専門の数学や数学教育での仕事についての扱いがあまりに小さいという印象を受ける。 人気を博した氏の社会評論、文明批評的な文章や発言も、専門分野で培われた思想や経験と深く関わって出てきたものだったろうと思うだけに、不満である。 だが、朝日の記事に載った安野光雅・井上章一両氏のコメントは、氏の人柄と教育者・書き手としての仕事の質をよく伝えていると思った。特に、井上氏が語っている教壇での森氏の姿は、森氏が語った湯川秀樹博士の(若手研究者たちを前にした)姿を髣髴とさせる。http://www.asahi.com/obituaries/update/0725/OSK201007250090.html ところで、毎日の朝刊に載った池田浩士氏(京大名誉教授・ドイツ文学)のコメントを読むと、69年の大学闘争の頃の森氏の姿が、距離を置きながら回想されてい
サー・カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper, CH FRS FBA、1902年7月28日 - 1994年9月17日)は、オーストリア出身のイギリスの哲学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。 純粋な科学的言説の必要条件として反証可能性を提起し、批判的合理主義に立脚した科学哲学及び科学的方法の研究の他、社会主義や全体主義を批判する『開かれた社会とその敵』を著すなど社会哲学や政治哲学も展開した。 フロイトの精神分析やアドラーの個人心理学、マルクス主義の歴史理論、人種主義的な歴史解釈を疑似科学を伴った理論として批判[1]。ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判した。 生涯[編集] ポパーは1902年にウィーンの中流家庭で生まれた。元来がユダヤ系だった両親はキリスト教に改宗しており、ポパーもまたルター派
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