ハンターハンターに登場する伝説の殺し屋一家『ゾルディック家』。 現当主シルバ=ゾルディックには5人の子供(四男?のアルカ=ゾルディックはシルバ曰く「どこかからやって来た何か」であり正式な家族なのかは不明です。一応四男という扱いですが、男か女かも不明。不明不明アンド不明な兄弟も何人かいます)がいます。 三男のキルア=ゾルディックは準主人公枠として、彼目線で物語が進行することもあるメインキャラクター。 ですが、今回はその兄でゾルディック家長男の、イルミ=ゾルディックにフォーカスしたいと思います。 伝説の殺し屋一家の長男は個性豊かな兄弟への気苦労が多く、実はなかなか大変そうなのです。 イルミ=ゾルディックとは? イルミと兄弟たちとの関係 三男・キルアは言うことを聞かない 二男・ミルキは引きこもり気味 四男・アルカは危険すぎ! 五男・カルトは幻影旅団に入っちゃった イルミもさすがにグレ気味? イル
ぷりっしゅ おそ松さん トレーディングアクリルキーホルダー アリスver. おそ松さん公式のアリスパロがどう考えても原作ガチ勢の犯行。 なおアリスパロは二回目だったっぽいんですが雑誌情報でそっちは確認できていません(雑誌が積まれています……)。そっちは「まあ妥当」という感じだったはず。 「わたしとアリス」の話をざっくりしますとファンタジー文学を志す人間として子供の頃から読み続けてきた上で大学で訳本を30冊くらい読んで文体比較してレポートを書くということをやりました(文体論をやっていたので)。ガチ勢を名乗っても問題ないはずだ。というわけで誰得だか知らんが感動したので書いておく。 まず、おそ松=赤の王はアニメ観てるだけでも「まあ要するに赤の王だよなこれ」とは思っていたんですが、アニメディアDELUXE+ Vol.1で示唆され、マーガレット3/5号付録でおそ松が王冠をかぶっていて補強され、おそ松
前回の記事のおさらい ①「自意識」とは簡単に言うと「他の人物とは区別されている自分自身に対する意識」のこと。 ②「自意識ライジング」とは(作中ではチョロ松の)自意識が増大している様子、すなわち自意識過剰(他の人物とは区別されている自分自身を過剰に意識してしまう状態)に陥っている様子のことを指す「おそ松さん」独自の造語。由来はおそらく英語の形容詞「rising(上昇する、増大する)」。 ③。相手からどのように思われるかということを意識するという意味で、ひたすら関心が自分自身に向かっているのだということがチョロ松というキャラクターを理解する際の重要なポイント。 「おそ松さん」19話「チョロ松ライジング」ではチョロ松以外の兄弟の自意識も登場する。そしてそのどれも色や形、大きさ、扱い方が異なっていた。それぞれの「自意識」がどのように描かれていたかを確認することで、6つ子のキャラクターを紐解いていき
まず最初にお伝えしますが、十四松マジ天使ガチ勢の方はこの紅白まんじゅうを持って速やかに回れ右してお帰りください。ここから先に進んでもお互いのために良いことは何もありません。9話Cパートを美しいラブストーリーとして観ることができた人の分の紅白まんじゅうの用意もあります。出せる茶の持ち合わせもありませんので、まんじゅうは家で食ってください。 もともとこのブログには愛や幸福などという言葉は餃子を示すとき以外ありませんが、今回は特にそんなものはここにはないということを念頭に置いておいてください。ここにあるのは残酷とペーソスとつらみ、それだけです。 わかった? ついにおそ松さんというアニメが、作中で既に言及された通り、「ギャグアニメ」の看板を放り投げて「自己責任アニメ」になりました、というエントリです。 おそ松さん9話、わたしはデリバリーコントでまず泣き、チビ太のおでんでハンカチ休憩をいただき、十四
8話観ました。 8話Aパート、おおむねブログで書いた通りでした。 ありがとうございました! 完! で終わっても仕方がないのであの残酷ホンワカサスペンス劇が何を指すのかという話をしようと思います。 論点としては「松野チョロ松という男をこんな形で公式が提示してしまっていいの!?」です。 8話Aパートの骨子はこうです。 ミステリーパラレル カラ松が殺され、刑事トド松が鑑識十四松を急かしているところに警部チョロ松が登場、「この事件は迷宮入りかもしれない」と言う カラ松のダイイングメッセージは「ふくめん」、そして覆面の男一松が凶器を持ってそこに立っている(のに誰も気づかない) チョロ松が「こんなときあの男がいてくれれば」と言ったところにおそ松が登場 おそ松は「なごみ探偵」、全然謎を解かずにただ現場の空気をかきまわして和ませるだけ おそ松は現場を引っ掻き回し、死者が出まくり、途中で(犯人かと思われた)
【当ブログのアニメ考察記事を読む前のご注意】 一連の考察記事はあくまで「私はこう読み解く」という個人的な考えについて述べるものであり、アニメ制作側の意図を的中させることを目的として書いた文章ではないことをあらかじめご理解いただきたい。現在、Ask.fmを通じて「ギャグアニメを深く考察することは無駄」「制作サイドはオープニング映像には特に意味がないと語っている」(※ソース不明。誰かご存知の方情報提供求む)「ギャグアニメなんだから何も考えずに見てろ」といった厳しいご意見を頂いているが、私の目的は制作側の意図通りにアニメ考察をすることではない(個人的に「こうした読み取り方もできるかもしれない」と考えたことについて述べているにすぎない)のでこのような意見を多数寄せられて困惑している。また、私の記事を好意的に評価していただいている読者の方からは「私は何も考えずに観て楽しんでいるだけなので、深い考察記
前置き。 ・筆者は20代後半のため、初代・2代目のアニメ「おそ松くん」は未視聴。 ・筆者は腐女子です。極力そういう観点は省いていますが、ご留意ください。 ・TV TOKYO視聴組。(11月5日付けで5話まで視聴済み) 先日よりTwitterで追加されていた投票機能を使って遊んでみた結果がこちら。 次のブログ更新は? — あきら\( ˆ◡ˆ )/ (@1mmtar) 2015, 11月 3 みんなおそ松さん好きだな?! ちなみにこのブログはリアルタイムで1話がブルーレイ&DVD未収録かつ配信終了になったタイミングで書いております。 あの1話だったからこそ視聴した身としては結構寂しい気持ちではありますが、ブルーレイ&DVD化の暁には完全新作が収録されるそうなので、今から楽しみにしておきたいと思います。 以下ソースURL http://osomatsusan.com/news/attention
少し前に書いたこの記事がTwitterでじわじわと拡散されているようで大変嬉しい。 今回はこの話に関連して「松野十四松」の特異性について触れ、彼がこの二人の関係性を紐解く可能性について言及したいと思う。 その前に、この論では押井守さんが好んで使用している「犬・鳥・魚」のモチーフの解釈をそのまま「おそ松さん」のキャラクターに強引に当てはめていることを断っておく。つまり「おそ松さん」製作サイドの意図していない読み取り方をしている可能性が十分にあるということだ。であるから、あくまでこの話は私(yurico15)の個人的なキャラクター考察論として楽しんでいただければと思う。 前回の記事では ・「おそ松さん」OP映像において、松野一松の口からハト、松野カラ松の耳から魚が出ていく描写がある。 ・数多くのアニメ作品を手がけた押井守監督は、「犬・鳥・魚」という動物のモチーフを好んで多用している。 ことを紹
今回は軽い雑談です。適当に笑い飛ばしてください。 遅ればせながらの言及ですが、おそ松さんオープニング曲「はなまるぴっぴはよいこだけ」がリリースされて歌詞が公開されましたね! わたし作詞のあさき氏に関して「深読みするだけ無駄だよ」と散々友人に吹き込まれていたので、正直鼻くそをほじっていて完全に出遅れたのですが、先ほど「7話でおそ松さんという話の方向性が完全に固まった気配がするしいい加減歌詞読むか……」と言って読み始めて、 「深読みもクソもなく本編そのまんまのことがそのまんま書いてあるじゃねーか!!!!!!!!!!!!」 と叫んで何かやり場のない気持ちになったんですけど歌詞の話してもいいですか。駄目でもしますが。ちなみにやり場のない気持ちになったのは「深読みなんかする必要ないってあんなに言われたのに! クララの馬鹿! いやたしかに深読みもクソもないけど……」といった感情ですのであさき氏にはなん
いやね、もうキモいって言ってもらっていいんだけど、おそ松さんの1話とかで「マジキチ」とか「完全にアウト」とか言って面白がってるの見てるとさ、真顔になるんですよ。中二病のコピペみたいな状態ですよ。「初カキコ…ども…」とか「ふーん、普通の人はこういうのを見て「面白い」 って感情になるのか。」とかの気分ですよ。 いや別におそ松さんがつまらないとかってわけじゃなくてさ、むしろすごい面白いわけですよ。ただ、「ヤバすぎ」ではないな、って。むしろキャッチーでわかりやすいなあって。法的にはギリギリなのかもしれないけど、別にパロディがそんなに風刺的な意味を持ってないのでヤバさはないんじゃないかって。喧嘩売ってないのでね。 もうね、視聴者を本気でドン引きさせるくらいで初めて「マジキチ」なんじゃないかって思うんですよね。まだ狙ってやってる感じが出てるので「おそ松さん」スタッフはもっと暴走出来ると思うんですよね。
Kiki's Delivery Service/1989/JP 『魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者、島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。その本のなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般に
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