福井 英一(ふくい えいいち、1921年(大正10年)3月3日 - 1954年(昭和29年)6月26日)は、日本の漫画家・アニメーター。東京都出身。 来歴[編集] 東京の下町に生まれる。手塚治虫は「芝白金町生まれ」と記している[1]。 旧制郁文館中学校を卒業[2][注 1]。中学を出た後は日本映画社で動画スタッフとなり、「線画」(アニメーション)を担当[3]。後述する『漫画少年』の追悼特集号掲載の座談会において、木村一郎は「中学卒業後は現在の職業安定所で会報を作る仕事に就いた」「戦争中は日映でニュース映画の地図に付けるイラスト(占領地の日章旗や爆撃地点の矢印)を手がけ、漫画映画に入ったのは戦後」という発言をしている[4]。手塚治虫の記述によると、川端画学校にも通い、太平洋戦争中も軍からの召集がなかったという[1][注 2]。 日本の敗戦後、東宝資本下で創設された日本動画に入社。木下としお、