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2012年2月14日のブックマーク (9件)

  • 背教者ユリアヌス帝 ニュー速VIP底辺。・゚・(ノД`)・゚・。

    1 :世界@名無史さん:02/09/06 20:53 ずーっと前にスレが有った気がしますが見当たらないのでまた立てます おいらの一番好きな歴史的人物です あんまし評価できないという人もなんか書き込んでください  176 :ユリアヌスの発言:04/07/25 19:40 私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。少なくともただ自由のなかだけに存在するのだ。――(中略)――私は人間を強制しようとは思わない。 百年たっても人間は愚かであるかもしれない。五百年たっても人間は自発的に正義を実現しようとしないかもしれない。千年の後にもなお絶望が支配しているかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。 あと千年か、二千年か、あくまでこの観念をまもりぬくほかない。 5 :世界@名無史さん:02/09/06

  • 西ローマ帝国 - Wikipedia

    西ローマ帝国(にしローマていこく)は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である[1][2][3][4]。 一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域および時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降のローマ帝国についても用いられることがある。 概要[編集] 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。 西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始ま

    西ローマ帝国 - Wikipedia
  • http://www6.tok2.com/home/temjin/netabare.html

  • 『変則書評:塩野七生『ローマ人の物語』ゲージ』

    *********************************************************** 塩野七生著『ローマ人の物語』(42) ローマ世界の終焉(中)(新潮文庫) 読破ゲージ: 読破ゲージ: ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■ *********************************************************** 「ローマの劫掠」その後。皇帝ホノリウスによる西ローマ帝国全域の総督および軍指揮官、法務官あての手紙。内容は「もはや帝国は、カネも軍事力もないので、守ってあげられません。各自自分で自分を守るように」。安全保障を放棄したことで、事実上、「帝国」は崩壊。覇権国の責務は、当事者によって投げ棄てられた。 それを横目に進む蛮族化。かつての「防衛線(リメス)」は、荒れるがまま、荒

    『変則書評:塩野七生『ローマ人の物語』ゲージ』
  • アッティラ王とフン族の帝国 ―神の鞭と呼ばれた男

    (1)アッティラ王とフン族の帝国 ―神の鞭と呼ばれた男 ■ フン族の王 アッティラ = アトリ、エッツェル 「ニーベルンゲンの歌」に登場するフン族の王、エッツェルの元ネタは、5世紀に生きたフン族の王、「神の鞭」と綽名されたアッティラである。 東から突然嵐の如く吹き寄せ、東西ローマ帝国にゆさぶりをかけ、近隣の民族を征服し傘下に収め、短い間とはいえ強大な「フン帝国」を築き上げた王。 ――だが、物語の中に描かれるエッツェル王は、気弱で、王妃に弱く、物事のイニシアチブをとられっぱなし流されっぱなしのまま最後まで「いい人」で終わってしまう人物である。「ニーベルンゲンの歌」より前に書かれた北欧の伝説ではアトリと呼ばれているが、こちらでも、ブルグント族を罠にかけはするものの、グードルーン(クリエムヒルト)との間に出来た息子たちの死を悲しんで酔いつぶれたところを館ごと火にかけられるなど、ツメが甘く、決して

  • 第40話  皇妃ガッラ・プラキディア  その二 - 仄聞百話

  • モンゴル - Chakuwiki

    世界を征服したことがある。 しかし、2度も日の神風に返り討ちにされている。 エジプト(マムルーク)にも返り討ちに遭っている。 ベトナムも撃退している。 マムルークは、モンケハーンが死んでモンゴル軍が後継者会議のために引き返したが、残されたキトブカ率いる小部隊を、大群を使い数で叩き潰しただけ(12万vs1万)。その後、来ならモンゴルが大群で攻めてくるはずなのだが、政治的理由でそれが叶わなかった。モンゴルが全力で攻めてきて、それを返り討ちにしたのではない。また、アインジャールートの戦いのモンゴル軍は、軍隊のほとんどがトルコ人兵士だった。 1回目は台風でつぶれただけ 台風シーズンが到来する前には上陸しているつもりだったが、日側が意外に粘り強く防衛したため果たせなかったせい。 世界のまともな軍事史でモンゴル来襲の結果を日側の防衛勝利として扱わないものはほとんどない。「偶然、神風のおかげでモ

    モンゴル - Chakuwiki
  • 〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち⑫〉 元帝国最後の皇后-奇順女

  • モンゴル帝国の侵攻が世界に与えた影響 | ログ速@2ちゃんねる(net)