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2022年12月27日のブックマーク (11件)

  • 元朝秘史 - Wikipedia

    1908年に中国で出版された『元朝秘史』。左側の大文字は漢字で表されたモンゴル語、右側の小文字は中国語訳と注釈。 『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。 元朝秘史は元々口承文学である。元朝秘史の現存するテキストは、12巻と15巻がある。原典はウイグル文字によるモンゴル語で書かれたと考えられているが、既に失われている。ただ、17世紀のモンゴル語年代記『アルタン・トブチ』(黄金史)に元朝秘史と同系統の記述が含まれていることが知られ、モンゴル語による写が存在した証拠と考えられている。 現存するテキストのうち12

    元朝秘史 - Wikipedia
  • センター試験をネタにホラズム・シャー朝の滅亡について考える

    あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 さて、世間ではセンター試験が行われたようで、受験生の皆さんはお疲れ様でした。私は毎年趣味で世界史Bを解いているのですが、今年は近現代史の問題が多かったようで、前近代に偏りがちな人間としては少し苦戦したので勉強の必要性を感じているところです。 それはそれとして、試験内容として今年は以下のような問題が出題されました。 (2019年センター試験、世界史B、p. 32より引用) モンゴル帝国を主題とした問題で、チンギスが題材になっているものです。問題の文はチンギスという人物の権威化、いわゆるチンギス統原理の形成について述べられており、なかなか面白い内容になっているのではないでしょうか。 ただここで問題にしたいのが問5です。ワールシュタットの戦いでモンゴル側を率いたのはバトゥ(直接分隊を指揮したのはバイダル)、大都を都としたのはクビライ

    センター試験をネタにホラズム・シャー朝の滅亡について考える
  • ベンジャミン・バサースト (外交官) - Wikipedia

    ベンジャミン・バサースト ベンジャミン・バサースト(英語: Benjamin Bathurst、1784年3月14日 – 1809年?)は、イギリスの外交官。1809年に在オーストリア特命全権公使(英語版)に任命されたが、同年11月にブダから帰国する道中、ペルレベルク(英語版)で失踪した[1]。バサーストの結末について、強盗殺人の被害にあった、精神錯乱の末の自殺[2]、マクデブルク要塞に囚われた[3]、ペルレベルクから逃亡したが道中で殺害された[1]、プロイセンの秘密組織について知ったため口封じで殺害された[4]など多くの仮説が唱えられたが、現在ではほぼ殺害された事が定説となっている。 バサーストの父にあたるノリッジ主教(英語版)ヘンリー・バサースト(英語版)。トマス・カークビー(Thomas Kirkby)画、1826年。 ノリッジ主教(英語版)ヘンリー・バサースト(英語版)とグレース

    ベンジャミン・バサースト (外交官) - Wikipedia
  • 『『斜陽の国のルスダン(画像左)』感想。』

    美容院から戻ったのが、15時半。 19時からの浦和VSドルトムントが始まる前に17時過ぎに読了。 基興味の範囲が中国史な自分がグルジア(現ジョージア)について知っていることは 『スターリンの祖国。ワインで有名』 『最近、反ロシアの為に《ジョージア》になった』 『ネクタイをべた大統領がいる』 くらいのものです。 正直、 『13世紀前半の黄金期が終わったグルジアが同時代最強のモンゴルにズタズタにされる話』 なので、明るい話ではないです。冒頭がいきなりルスダンの自害シーンだし。 主人公のルスダンの母はグルジア最盛期の偉大な女王、兄も帝王学を学んだ名君なんですが 彼女は女王としての教育は何も受けていない、 美貌(生ルスダンを見た同時代人はみんな褒めている)以外は普通の少女で 隣国へ嫁ぐ準備をしているだけでした。 十字軍に行くはずだった兄がモンゴルとの戦いで戦死し、急遽幼馴染のディミトリ (イス

    『『斜陽の国のルスダン(画像左)』感想。』
  • ジャラールッディーン・メングベルディー - Wikipedia

    ジャラールッディーン・メングベルディー(ペルシア語: جلال الدين منكبرتي‎ Jalāl al-Dīn Menguberdī、1199年 - 1231年8月15日)は、ホラズム・シャー朝の第8代スルターン(在位:1220年 - 1231年)。『元史』では札闌丁、『元朝秘史』では札剌勒丁莎勒壇と音写される。 クフナ・ウルゲンチのミナレット ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの子として生まれる[1]。伝記によれば彼の母はインドの出身であり、そのために黒みがかった肌をしていたという[2]。 ヒジュラ暦614年(西暦1217年 - 1218年)にアラーウッディーンが行ったバグダード遠征の後、旧ゴール朝領のガズナ、バーミヤーン、ゴールなど、現在のイラン東部からアフガニスタンにかけての地域を領地として与えられた[1]。 1219年初頭[3]、メルキト族の残党

  • アルメニアの至宝!深い渓谷に建つノラヴァンク修道院 | アルメニア | トラベルjp 旅行ガイド

    アルメニアのヴァヨツ・ゾル地方にある「ノラヴァンク修道院」は、13世紀から14世紀のオリベリヤン時代に、天才建築彫刻家のモミックと建築家シラネスによって建てられました。その素晴らしいデザインから「アルメニアの至宝」とも言われています。 当時モミックはトルコのキルキアにいましたが、彼の建築物を見たオリベリヤンの王(当の王はキルキアに亡命したため、この地で最も力を持っていた統治者)が、その美しさに感銘しアルメニアに召喚。そしていくつもの教会を建築させました。 「ノラヴァンク」は「新しい修道院」という意味で、他のアルメニアの教会と比べると年代が新しく、異なるスタイルとなるためそう呼ばれています。 ノラヴァンク修道院が建つ前にも教会がありましたが地震で倒壊。その後、オリベリヤンがお墓を作り、その上に現在の教会を建てました。 ここは修道院なので、かつては会議室や図書室などもありましたが、倒壊後は3

    アルメニアの至宝!深い渓谷に建つノラヴァンク修道院 | アルメニア | トラベルjp 旅行ガイド
  • 三ハン国の分立

  • チンギス家の一族 | 塩はうまくてまずいです

    このブログを始めてから10年経っちゃいました。 池袋の「モンゴル料理屋」で馬乳酒を飲んだのって、 もう10年も前の話になるですか・・・・。 怖い。時の流れは怖いよー。 いちおう今後もダラダラと続けてくつもりですので、よろしくお願い致します。 それにしても10年かー。あー怖い怖い。w 史上最大の版図を誇ったモンゴル帝国。 その創始者であるチンギス・ハンの英雄譚はとても面白いのですが、 「モンゴル帝国」としての面白さは、むしろ彼の死後にあります。 チンギス・ハンの正妃は「ボルテ姐さん」。 そしてボルテ姐さんとの間には4人の息子がいました。 ジュチ チャガタイ オゴタイ トゥルイ チンギス・ハンが死んだとき、すでに長子のジュチは病死しており、 後継者は残りの3人の誰かから選ばれるコトとなります。 この中で最有力候補だったのは末子のトゥルイ。 トゥルイは軍事的にも政治的にも有能で、チンギスから最も

    チンギス家の一族 | 塩はうまくてまずいです
  • アショーカ王とは?ダルマで統治し今も石柱の残るインド最強の王・仏典を結集し仏教を世界宗教に

    アショーカ王(紀元前304-紀元前232)は、マウリヤ朝第3代の王です。 紀元前268年に即位すると、インドを統一し、インド史上最大の領土を統治しました。 その範囲は西はアフガニスタンから東はバングラデシュまで各地に残るアショーカ王の碑文から分かります。 インドでも大変尊敬され、現在のインド国旗に、アショーカ王のデザインが使われているほどです。 そのアショーカ王は、王に即位してから仏教に深く帰依し、国の内外に仏教を広めました。 一体どんなことがあったのでしょうか? アショーカ王とは? アショーカ王とは、どんな人なのでしょうか? アショーカ王のことを阿育王ともいいますので、 まず仏教の辞典で簡単に確認してみましょう。 阿育王 あいくおう 治世前268-232 <阿育>はサンスクリット語 Aśoka(パーリ語 Asoka)に相当する音写。 アショーカ王。 <無憂王(むうおう)>とも漢訳する。

    アショーカ王とは?ダルマで統治し今も石柱の残るインド最強の王・仏典を結集し仏教を世界宗教に
  • エスファハーン - Wikipedia

    エスファハーン(ペルシア語: اصفهان‎; Eṣfahān [esfæˈhɒːn] ( 音声ファイル)、英: Isfahan) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置する[1]。日語では、慣例的にイスファハン、イスファハーンとも表記される[2]。 古くからの政治文化・交通の拠点であり[3]、16世紀末にサファヴィー朝の首都に定められ発展した。当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分( Esfahān nesf-e-jahān ast 、エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン)」と賞賛され[4][注 1]、この街を訪れたヨーロッパの商人も繁栄の記録を残している。イラン人にとってエスファハーンは歴史的・文化的に重要な町であり[5]、町の美しさは「イランの真珠」と例えられる[6]。 町は16世紀以前に建設された旧市街と、サファヴィー朝の王アッバース1世が建

    エスファハーン - Wikipedia
  • スターリンにはグルジアなまりがあったか:現存する映像、音声の間に矛盾が…

    現代の一般のロシア人がもつイメージとしては、ソ連の独裁者スターリンは、強いグルジア(ジョージア)なまりでロシア語を話した。映画などでもしばしばそのように描かれているし、多数の演説の録音でも、多かれ少なかれなまりがあるようだ。だが、実際はそうではなかったという証言もある。 現代のロシア人のほとんどは、当然、スターリンを直に見たことはおろか、彼の演説の動画もあまり目にしていない。だから、そういう動画がYouTubeにアップロードされると、多くの人が、「初めて彼の声を聞いた」とコメントし、彼のふるまいにも驚く。 つまり、あのスターリンが笑ったり冗談を飛ばしたりし、庶民が彼に対して拍手喝采し、彼と会って幸福感に輝いているなんて!というわけだ。しかし、これは驚くには当たらない。スターリンのカリスマ的で「ポジティブ」な映像は、長年アーカイブにしまい込まれていたのだから。 1956年の有名なソ連共産党

    スターリンにはグルジアなまりがあったか:現存する映像、音声の間に矛盾が…