私は長年、フランクルの『夜と霧』に言及する僧侶の話に違和感を抱いてきた。 先日新聞の記事でこのような文章を目にした。「近日驚いたが、今日の意識の高いビジネスマン向けの書き手には、名高いフランクルの『夜と霧』ですら、ナチスの絶滅収容所を生き延びた著者の『“強さ”に学ぶ自己啓発本』として扱われるらしい」。歴史学者の與那覇潤という方の文章だが、ここには歴史に刻まされた悲劇すら自己啓発に変えてしまう現代人に対する皮肉が込められている。 この視点が、大谷派においてフランクルを持ち出すことは果たして正しいことなのだろうかという、忘れかけていたかつての私の疑問を呼び覚ましてくれた。だから、今度はしっかりとこの違和感を言語化し問題の輪郭を描いておきたい。思いつきで綴った乱文だが、興味があれば読んでいただきたい。 大半の僧侶からすると「何を言っているの?」という感想しかないかもしれないが、わかる人がわかって