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フッサールはある講義で、次のように述べています。 人間の認識を並外れて拡張するためには、分業の必要が拒否しがたくでてくる。もともとはひとつの学問が、数学、物理学、生理学等々に分かれたのだ。そして、こうした仕方での制限によってのみ、われわれの時代を特徴づける、予想もしなかった偉大な前進が可能になったのである。しかし、次のことは十分に注意しなければならない。それは、つぎつぎと特殊な仕事へとこうして制限を行うことによって人間の価値と威厳が作られているわけではまったくない、ということだ。それは必要悪でしかない。それは、人間本性の制限からの、悲しむべき帰結なのだ! 完全な人間であろうと努力する完全な研究者は、したがって、自分が従事する学問がより一般的でより高度な人間の認識目標に対してもつ関係を、けっして目から離してはならない。ある狭い専門に職業的に制限されることは必要である。しかし、そこに完全にまっ
ここ何年か友人たちとアドルフ・トレンデレンブルクの『論理学研究』(第3版、1870年)をゆるゆると読んでいて、これがなかなか楽しいのですが、この楽しさの一部はトレンデレンブルクの嫌味ったらしい書き方にあることは間違いないですね(この嫌味な感じが苦手だという人もきっといることでしょう)*1。 たとえば第2版の序文のこれ。 哲学者は誰でも自分の手ではじめなければならず、自分独自の原理を持たなければならず、世界をそのなかに映し出すための特別なスローガンにしたがって磨き上げられた鏡を持たなければならない、というのはドイツにおける偏見である*2。 嫌味度でいったらこんなのはまだ序の口という感じなんですが、もし仮に私がドイツ古典哲学について本を書かなければいけないならばこれをエピグラフにしたいですね。そんな必要に迫られることは今世ではありえないので、ここに放出しておきます。 *1:トレンデレンブルクに
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