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ブックマーク / uemurag.hatenablog.jp (16)

  • 哲学史研究と哲学をすることの関係についてのグライスの「ファンタジー」 - 研究日誌

    先日勤務先で一般向けの講座を行う機会を得て、「哲学と哲学史——両者は切り離せないのか」という内容で話をした。下記の記事からはじまる当ブログの一連のSauer論文記事を題としてその前後に前置きと展望を挟むという感じの構成で、どちらかといえば利他的な動機に基づいて書いたものが結果として自分を助けてくれたかたちになった。やはり、思いついたことは(それを公開するかどうかはまた別の問題だが)とりあえず書いておくべきである。 uemurag.hatenablog.jp 今回の講座を準備するにあたっては、過去の自分に助けられたことがまだある。主要部分に先立つ前置きで哲学史と哲学の関係をめぐるさまざまな見解を引用して紹介したのだが、その少なくない部分は、2017年の日哲学会大会シンポジウムでの発表とそれに先立って出版された論文*1のために準備したもののさまざまな事情で使わなかったものだった。そのなかで

    哲学史研究と哲学をすることの関係についてのグライスの「ファンタジー」 - 研究日誌
  • 富山豊『フッサール 志向性の哲学』のあとに読むといいかもしれない文献 - 研究日誌

    ひとつまえのエントリの補足。富山豊『フッサール 志向性の哲学』には簡潔で要を得た読書案内がついているのだけど、そこで紹介されていないおすすめの文献をふたつ紹介しておこう。 (1)富山の177–184ページでも論じられているフッサールの「充実」概念については、ジョスラン・ブノワの次の論文を読むと面白いだろう。簡単なものではないけど、富山を読んだあとなら取り組めるための基的な準備はできているはず。 (2)富山はフッサール入門書であると同時に言語の意味とは何かという問題に取り組むでもあるわけだけど、この問題についてフッサールがどのような立場をとっていたのかについては、アルカディウス・フルヅィムスキの以下の論文もある。富山との違いについて考えてみると面白いと思う。 どちらの論文も2009年の末に出た『現代思想』のフッサール特集に掲載されている。この号にはフッサールの価値論・倫理学に関連

    富山豊『フッサール 志向性の哲学』のあとに読むといいかもしれない文献 - 研究日誌
  • 現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その3):どのような研究実践が推奨されているのか - 研究日誌

    今日も続きの話を、しかし短めに。まずはおさらいから。 Sauerの言いたいことは、要するに次のように再定式化できるものだった。 もしあなたが特定の哲学の問題について、真だと考えることを支持する理由のある考えを手に入れたいならば、歴史上の哲学者の著作を読むことは不要である。 ここでの「特定の問題」とは、哲学の歴史のなかで一貫して問われ続けているような問題のことだ。詳しいことについては「その2」を読んでほしい。 おさらい終わり。 さて、今回の話に入るためのとっかかりとして、上の主張に対する「筋違いの賛意」をひとつとりあげよう。Sauerに同意して、「そのとおりだ。哲学に哲学史はいらない。自分の頭で考えなければ哲学じゃない」と考えることは、残念ながら要点を外している。少なくとも、「自分の頭で考えること」を「特に参考文献を使わずに、あるいは入門書のたぐいを軽く読んだうえで哲学的な問題について取り組

    現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その3):どのような研究実践が推奨されているのか - 研究日誌
  • 現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その2):何が誰にとって不要だとされているのか - 研究日誌

    前回の記事の続き。大雑把には「現代哲学の研究に哲学史は必要ない」という主張を擁護した論文 Hanno Sauer, "The End of History", Inqury. https://doi.org/10.1080/0020174X.2022.2124542 について、いくつかの補足をしておく。ちなみに哲学史と哲学の関係について私は自分なりの考えをもっており、Sauerの論文にも賛成できるところとできないところがある。しかし前回と同様に今回のエントリーでも、原則として私見を交えずにSauerの主張をはっきりさせることしかしていない。また、原則を破って私見を述べる際には、それとわかる書き方をしたつもりだ。 前回のエントリーと同じく、以下ではこの論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。これまた前回と同じく、以下に出てくる鉤括弧は、そ

    現代哲学の研究に哲学史は必要なのか(その2):何が誰にとって不要だとされているのか - 研究日誌
    contractio
    contractio 2022/09/25
    続き。
  • 現代哲学の研究に哲学史は必要なのか - 研究日誌

    大雑把に言えば、タイトルの問いに「必要ない」と答える論文が出た。 Hanno Sauer, "The End of History", Inqury. https://doi.org/10.1080/0020174X.2022.2124542 読んでみたら面白かったので、自分用のメモも兼ねて概略をまとめておいた。感想なども書きたいのだけど概要だけでだいぶ長くなったのでその辺はまたの機会にしたい。とはいえいくつかのことは注に書いておいた。 要注意事項 以下では同論文を2022年9月現在の'Latest articles'版のページ番号だけで参照する*1。 以下に出てくる鉤括弧は、そのあとにページ番号が付されている場合には同論文からの引用である(翻訳は植村による)。それ以外の鉤括弧は読みやすさのために植村がつけたものだ。 この要約は、箇所によっては原文をかなりパラフレーズするかたちで作られてい

    現代哲学の研究に哲学史は必要なのか - 研究日誌
  • 高橋里美の胆力(おまけ) - 研究日誌

    前々回と前回のおまけ。 フッサール宅での「現象学は哲学のひとつでしかない(大意)」発言のあとに、高橋と務台は飲み屋で「おいどうするよ」みたいな相談をしたらしい。 教授の家を辞して帰路小さな地酒のビール屋でビールを飲みながら、老先生をあんなに興奮させてしまったことについてどうしようかと相談しあった。両人〔務台と高橋〕はじつは夏の学期にはマールブルクに出かけてハイデッガーの実存哲学の講義をきく予定にしていたのだが、こんなことがあってマールブルクへ去るのはどうも老教授にすまない。ハイデッガーを割愛していま一学期老教授のもとに留まろうではないかということになった。/その次の週の面会の時には、フッサールは全く今まで通りの様子で、前回のことなど全く忘れているようであった。その後もそうであったが、両人は引き続いて夏の学期老教授の許にとどまることにきめた。そのうちハイデルベルヒから世良寿男君がやってきて、

    高橋里美の胆力(おまけ) - 研究日誌
  • 高橋里美の胆力(その2) - 研究日誌

    前回の続き。上の記事で引用した文章で小野浩が「旧台北帝大のM教授」と呼んだ人物は、高橋里美と同時期にフライブルクに留学していた務台理作のことだろう。務台は、高橋がフッサールの面前で見せたもうひとつの大胆な振る舞いの目撃者でもある。「留学時代の高橋里美さん」と題された1964年のエッセイで、この出来事を務台は次のように描写している。 冬の学期の終わり頃であった、例の様にフッサール教授の宅で両人が現象学の話をきいているうちに、一つのことがきっかけで老教授を非常に興奮させ、顔色をかえ身をふるわせるようなことが起こった。その詳細は戦前第一書房から出た高橋さんの著書『フッサールの現象学』の附録に書かれてあるが、要するに教授が自分の現象学はdie Philosophie(ほんとうの哲学)といわれたのにたいし、高橋さんが正直に「いや自分はeine Philosophie(たくさんの中の一つの哲学)だと思

    高橋里美の胆力(その2) - 研究日誌
    contractio
    contractio 2022/09/08
    おそろしい….
  • 尾高朝雄の生涯 - 研究日誌

    www.amazon.co.jp ちょっと前の話になりますが、上の論集に「現象学者としての尾高朝雄——1930年代の社会団体論を中心に」という論文を寄稿しました。日哲学研究という文脈では尾高はそれほど中心的な人物ではないため、伝記的な事実についても調べ物をして書いてみたものの、提出した原稿では字数の都合でその箇所を大幅にカットせざるを得ませんでした。基的なことが手短にまとまっていて割と気に入っており、このままお蔵入りになるのはもったいないと思ったので、丸ごと全部削除した段落に少し手を入れたものをここに公開します。もっと詳しいことが知りたいという場合には、末尾に挙がっている参考文献、とりわけ、金昌禄 「尾高朝雄と植民地朝鮮」(オンライン版はこちら)にあたってみてください。注1にも書いてあるように、以下の文章中の基情報はこの論文に多くを負っています。 尾高朝雄の経歴を少しだけくわしく紹介

    尾高朝雄の生涯 - 研究日誌
  • エディット・シュタインが語るフッサールの観念論 - 研究日誌

    フッサールが1913年の著作『イデーンI』で表明した観念論的な見解に対して、いわゆるミュンヘン・ゲッティンゲン学派に属する初期の実在論的な現象学者たちが反発した、という話は比較的よく知られているのではないかと思います。この対立に関するエディット・シュタインの所見がなかなか興味深いので紹介しましょう。以下は、シュタインがローマン・インガルデンに宛てた1927年10月2日付の書簡の一部です。 構成の問題(私がこれを過小評価しないことは確かです)から観念論が導かれなければならない、あるいは観念論が導かれうるということを、私は信じていません。私が思うに、この問いはそもそも哲学的な方法によって決着をつけられるようなことではなく、誰かが哲学をしはじめるときにはいつでもすでに決まってしまっていることです。そして、ここでは個人の究極的な立場が関わってくるわけですから、フッサールの場合でさえも、彼にとってこ

    エディット・シュタインが語るフッサールの観念論 - 研究日誌
  • フッサールの科学観 - 研究日誌

    フッサールはある講義で、次のように述べています。 人間の認識を並外れて拡張するためには、分業の必要が拒否しがたくでてくる。もともとはひとつの学問が、数学、物理学、生理学等々に分かれたのだ。そして、こうした仕方での制限によってのみ、われわれの時代を特徴づける、予想もしなかった偉大な前進が可能になったのである。しかし、次のことは十分に注意しなければならない。それは、つぎつぎと特殊な仕事へとこうして制限を行うことによって人間の価値と威厳が作られているわけではまったくない、ということだ。それは必要悪でしかない。それは、人間性の制限からの、悲しむべき帰結なのだ! 完全な人間であろうと努力する完全な研究者は、したがって、自分が従事する学問がより一般的でより高度な人間の認識目標に対してもつ関係を、けっして目から離してはならない。ある狭い専門に職業的に制限されることは必要である。しかし、そこに完全にまっ

    フッサールの科学観 - 研究日誌
  • トレンデレンブルクの嫌味な文章(その1) - 研究日誌

    ここ何年か友人たちとアドルフ・トレンデレンブルクの『論理学研究』(第3版、1870年)をゆるゆると読んでいて、これがなかなか楽しいのですが、この楽しさの一部はトレンデレンブルクの嫌味ったらしい書き方にあることは間違いないですね(この嫌味な感じが苦手だという人もきっといることでしょう)*1。 たとえば第2版の序文のこれ。 哲学者は誰でも自分の手ではじめなければならず、自分独自の原理を持たなければならず、世界をそのなかに映し出すための特別なスローガンにしたがって磨き上げられた鏡を持たなければならない、というのはドイツにおける偏見である*2。 嫌味度でいったらこんなのはまだ序の口という感じなんですが、もし仮に私がドイツ古典哲学についてを書かなければいけないならばこれをエピグラフにしたいですね。そんな必要に迫られることは今世ではありえないので、ここに放出しておきます。 *1:トレンデレンブルクに

    トレンデレンブルクの嫌味な文章(その1) - 研究日誌
  • フッサールと「ナイフ研ぎ」のエピソード - 研究日誌

    少年時代にナイフを貰ったが、切れ味が気に入らず研ぎすぎて台無しにしてしまった——レヴィナスがフッサールから聞いたというこのエピソードは、広く知られているのではないかと思います*1。この記事のタイトルを見ただけでピンときたという人もけっこういることでしょう。しかし、この逸話はソースなしで語られることも多いような気もします。というわけで、しっかりとした文献上の証拠をここに引用しておきましょう。 フッサールのナイフ研ぎのエピソードは、1950年に刊行された『フッサール全集』第1巻(『デカルト的省察とパリ講演』)の編者序文のなかで、編者シュトラッサーがレヴィナスから教えられた話として伝えられています。該当する箇所を翻訳して引用します。 自分の哲学の方法をつねにより完全なものにし、しかも十分な体系的な定式化を犠牲にしてまでそうするというフッサールの傾向を示すものとして、E・レヴィナス博士が編者〔シュ

    フッサールと「ナイフ研ぎ」のエピソード - 研究日誌
  • 『アリストテレス的現代形而上学』の担当箇所紹介 - 研究日誌

    先日発売され、前回のエントリ(目次はそちらで見ることができます)でも紹介したトゥオマス・タフコ(編)『アリストテレス的現代形而上学』について、訳者の一人である鈴木さんが担当した章(第4章と第12章)の簡単な紹介をしている というわけで、私も自分が担当した章に関する簡単な紹介をしたい。 トゥオマス・タフコ 「序論」 この序論では、アリストテレス的な形而上学とは何かについてのごく簡単な説明の後に、書に収められた14篇の論文の内容が順番に紹介されている。『アリストテレス的現代形而上学』は、基的にどこから読みはじめてもいいような構成になっているので、この序論と「訳者解説」をまずはチェックして、興味深いと思った章に進むといいと思う。 第3章  ティム・クレイン 「存在と量化について考え直す」 鈴木さんが翻訳を担当したエリック・オルソン「同一性・量化・数」と対をなすこの論文は、オルソン論文と同じく

    『アリストテレス的現代形而上学』の担当箇所紹介 - 研究日誌
  • 現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(2) - 研究日誌

    秋葉剛史『真理から存在へ:〈真にするもの〉の形而上学 』(春秋社、2014年)を(だいぶ前に)著者の秋葉さんからいただいた。ありがとうございます。 博論をもとにした著作ということもあって内容的には高度なところもあるのだけど(特に心的因果の問題を扱った第8章は難しいと思う)、説明が丁寧だし、読者を迷子にさせない配慮に富んだなので、現代形而上学に馴染みのない人でも挑戦してみる価値があると思う。すでに科学基礎論学会の研究集会で書評セッションが行われたし(面白かったので、ぜひとも論文で読めるようにして欲しい)、おそらく『科学哲学』あたりにそのうち書評がでるだろう。というわけでここでは、『ワードマップ現代形而上学 』のときと同じように、やや搦め手から、現象学と現代形而上学の関係についての我田引水めいた覚え書きを残しておきたい。そしてそれをもって、「現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を

    現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(2) - 研究日誌
  • 現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(1) - 研究日誌

    『ワードマップ現代形而上学 』を一通り読了した。 仕事の合間に開いているだけでいつの間にか読み終わってしまう読みやすさは素晴らしい。はやくも重版されたという同書の人気にあやかって、現象学について関心のある人がこのから先に進むとしたらどんな道があるのかについて、文献情報を少しまとめておこうと思う。 『WM現代形而上学』の著者のうち二人は、『現象学年報』にも論文を掲載しているので、(兼業ないし休業中の)現象学研究者だといっていいだろう。実際、その二人のうちの一人は先日「フッサールと現代形而上学」というシンポジウムに登壇した。そのおかげもあってか、同書には現象学の伝統に由来する話題がいくつか登場する。その最たるものは倉田さんが執筆した「存在依存」と「人工物の存在論」の二章だろう。これぞれの章に付せられたコラムでもきちんとフォローされているように、ここではフッサールとインガルデンという現象学者の

    現象学を学ぶ人のための現代形而上学・現代形而上学を学ぶ人のための現象学(1) - 研究日誌
    contractio
    contractio 2014/04/01
    これは良い小判鮫マーケティング。
  • 2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について - 研究日誌

    今年の大学入試センター試験の「倫理」で「フッサールの思想の記述として最も適当なものを、次の1から4のうちから選べ」という問題が出た(こちらで見ることができる)。選択肢は以下の通り。 人間は自己の在り方を自由に選択するため、実存が質に先立つ。 事物は知覚とは独立に存在せず、存在するとは知覚されることである。 言語の限界を超える語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。 自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である。 正解とされているのは4なのだけど、そこに書かれていることはフッサールの思想の記述としてはちょっと(あるいは、場合によってはかなり)まずいように思われる。というわけで、フッサール研究者の端くれとして、私がなぜこの問題に難があると思ったのかについて簡単に書いておく。 I. 「判断中止」という言葉について まず指摘しなければいけないのは、「判断中止」という言葉はフッサールの著

    2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について - 研究日誌
    contractio
    contractio 2012/01/15
    「判断中止を行い、自然的態度を変更することが必要である」
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