幻の大恋愛小説(ハハッ)がついに、全文インターネットで読めるようになりました。 1986年、国鉄がJRにかわるとき、全国に1,400箇所の収容所があった。 18,000人の労働組合員を閉じこめた現代の強制収容所=人材活用センターのことを私はけっして忘れない。 「見晴らし荘のころ」は、最初、国鉄労働組合員で作る同人誌「作家集団」1995年5月号に掲載され、その後、1997年6月、教育史料出版会から「謡子追想」(人は愛と闘いに生きられるか)というタイトルで出版されました。今回、全文をインターネット版として公開するに際して、再びタイトルを、当初のものに戻しました。 私が「見晴らし荘」に暮らしていたのは1985年から1987年にかけての2年弱です。あの時からもう20年ちかくたつのですが、あの時、全国の国鉄の職場で起きていたことを世の中に伝えたいという感情は少しもなくなりません。今回、全文をインター
Pick Up 国鉄闘争 民営化の旗を振った中曽根康弘氏の国営の葬式 (2021/01/12) New! 大往生を遂げた中曽根康弘氏と後継者におくる追悼の辞 【書評】『戦後史の中の国鉄闘争』 (2020/08) 1987年~2010年にいたる国鉄闘争の記録、800頁。当事者の思いを丹念に収集、検証して闘いの実相に迫る。 「品川駅の花壇」 (2018/04) 分割・民営化から30年を生きた国労組合員への挽歌。…死んだM君と私にとって、けっして忘れることのできない「品川駅の花壇」をめぐる物語。 大和田幸治さん、和田弘子さんと、私 (2012/11) 尊敬する金属労働運動の指導者の死を知らせてくれたのは、国鉄臨時雇用員の解雇撤回闘争に半生をかけた和田弘子さんの連れ合いでした。 国にたてついた一労働者の想い出 (2018/02) 元国鉄宮崎車掌区車掌長、元国労宮崎闘争団員の大先輩が、分割・民営化反
福井大教授が、他大学の複数の研究者と協力し、投稿した学術論文の査読に自ら関与する査読偽装をした問題で、文部科学省が国内の大学などの研究機関に対し、適正な研究活動に努めるよう通知を出したことがわかった。通知は3月24日付。 通知は同省科学技術・学術政策局長名で、同省から予算措置を受ける大学や民間企業など約2000の研究機関が対象。福井大が2022年12月、福井大教授の論文6本で査読偽装が行われたと認定したことを受け、注意喚起した。 研究不正に関する国のガイドラインでは、査読偽装は、捏造(ねつぞう)や改ざんといった特定不正行為には該当せず、研究費の返還などの罰則もない。しかし通知では、今回の査読偽装を例示して「研究実績の不当な水増しにつながり得る、研究者倫理に反する行為に当たる」と指摘。近年では他にも、論文の二重投稿など、特定不正行為に該当しない不正行為が確認されているため、不適切な行為の調査
東京大学は、教授(60歳代)に対し、3月20日付けで、停職1月の懲戒処分を行った。 教授は、同人を指導教員としていた大学院学生に対し、3か月あまりの長期間(この間、当該大学院学生は教授に対し、博士論文執筆のために必要とされている文献リストや執筆予定の博士論文概要等をメールで送信し、再三にわたり助言や指導を求めていた。)にわたり、自身の意図や教育的配慮について説明することなく、具体的な指導や応答をしなかった。 その後、教授は、当該文献リスト等の正式な提出期限がおよそ3週間後に迫った時点になってはじめて、当該大学院学生に対し、文献の不足を指摘したり論文の根幹部分について問うような内容を含む複数の発問をメールで送信した。 これらの教授の行為(作為又は不作為)は、大学の構成員が、教育・研究上の権力関係を濫用し、他の構成員に対して不適切で不当な言動を行うことにより、その者に、研究に差し支えるような精
【ホッテントリしてたので宣伝】私がこのテーマに関して思い出す作品の内、もっともおすすめな作品は「聖☆高校生」です。 聖☆高校生 11 (ヤングキングコミックス) 作者:小池田 マヤ少年画報社Amazon①性被害者ポジであった自分が加害者ポジになったときの衝撃をどう受け止めるか ②自分の性被害をどう克服するか ③自分の罪とどう向き合うか。④あこがれの人が犯罪行為をおかしていたときにどのように向き合うべきか。だいたいこのテーマについて考えるべき要素が一通り体験できます。そういうの抜きにしてもおすすめしたい超ド級名作。あと、個人的な趣味としては「花やしきの住人たち」も好きなのですが、こちらは暗すぎるので人を選びます。 本当はfont-daさんに解説していただきたいところですが…… https://anond.hatelabo.jp/20230413000017anond.hatelabo.jp
14歳で帰国船に乗った石川学さん 北朝鮮での30年とは何だったのか? 社会生活の始まり、そして父の永住帰国 1976年、恵山高等機械専門学校を卒業し、私は行政機関の設計事務所に配置されました。姉と兄の後ろにくっついて帰国した頃はまだ14歳だった私も、いよいよ20歳になり社会に出ることになりました。 なぜ私が設計事務所に配置されたのか。行政の人は書類を見れば私が帰国者だということが分かるので、帰国者に現場労働は大変だ、おそらく難しいだろうと、行政側の配慮のようなものがあったようです。そのため、私に与えられた業務は他の肉体労働に比べるととても楽なものでした。 仕事は工業設備の設計でした。一年中仕事は室内で出来ましたし、ノルマもないため、達成できなかったからといって給料から差し引かれる罰金もありません。もし私の仕事が送れたり、ミスがあったりしたとしても、少し怒られるくらいで給料に影響はありません
14歳で帰国船に乗った石川学さん 北朝鮮での30年とは何だったのか? 第10回 心病み、亡くなった私の姉について ◆兄弟を支え続けた姉 これまで何度か述べてきましたが、今回は私の姉についてお話ししようと思います。 時は私たちが日本で暮らしていた頃まで遡ります。 私の姉は東京朝鮮高校を卒業後、朝鮮大学校に推薦で入学するチャンスがあったものの、ちょうど両親の離婚もあって大学進学を一旦諦めました。代わりに朝鮮新報社に就職して、組織の中で働きながら家族や弟の面倒を見てきました。 両親の離婚後、私は父に引き取られたのですが、ギャンブル好きの父は私の学費はもちろん、学生服すら買えないような経済状況でした。私が仕方なく家でゴロゴロしていると姉が訪ねて来ては「こら!何で学校行かないの!」なんて怒鳴ってくれたものです。最終的には私を学生寮のある栃木の朝鮮小中学校に入れてくれました。離れていても、いつも弟想い
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