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芸術に関するishikawa-kzのブックマーク (5)

  • 日本における「アウトサイダーアート」とは何か

    アサダワタル/WataruAsada @WataruAsada ちなみに僕は今年から二年間で全国10カ所にアールブリュット的(まだコンセプトがはっきりしていないので“的”と言い方をする)美術館を立ち上げるPJに関わっている。福祉関係者はもとより建築家や弁護士や学芸員や、僕みたいなアートと社会編集みたいな立場ふくめてやっていくPJだ。 2010-05-07 12:22:47 さるけー @sarkeeeee NHKかなんかのニュースでやってたやつ?流してみてたからよく覚えてないけど、「障害者の」アートとして紹介されてたっけ。俺は、いろんなもんごちゃごちゃくっつけたのをなんとかアートって呼んでるのかと思った@Lusopeso_Chiba 2010-05-07 19:48:50

    日本における「アウトサイダーアート」とは何か
  • ■ - paint/note

    上山和樹さんのblogにて、とてもインスパイアされる形で私の個展を紹介していただきました。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20091018 私には、このエントリが単にオンライン上で、かつて意見交換をしたことのある相手への儀礼的なtxtではないと感じられました。追記によって更に明瞭になっていると思うのですが、このエントリ自体が「制度分析」になっている−たとえば、端的に言って、「上山和樹という制度」の分析になっている。勿論、記述とは常にそうである、と言う事は可能です。しかしそれこそウルトラというものです。上山さんのエントリは今回に限らずいつもそうなのですが、分析の結果を書いているのではなく、書く事自体が分析としてある。そのことに、相変わらずの緊張感を感じざるを得ません。 この有り様は、私の考える「製作」と平行性を描きます(私が上山さんの影響を受けているのだから

    ■ - paint/note
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/10/21
    「体に力が入っていると「ボルテージ」は上げられても「テンション」はむしろ下がる」なるほど。いい得て妙だなあ。
  • 永瀬恭一個展「ノートの終わり・ノートの始まり」 - Freezing Point

    私が気になる絵は、たとえば中西夏之(参照)、高木紗恵子(参照)、岡崎乾二郎(参照)などで、何か神経症的な順応主義と反対の、そこでもう一度「やり直させてくれる」ような、かといってぞんざいではなく、必然性を探す緊張感があって、そのための応援をしてくれるような――そういう作品を欲しているのだと思います。 完成形でフェティッシュになることを求めているような自意識が一番イヤで、それが私の社会的逸脱と関わっていそうですが、逆に言うと、私はそのような《もういちど取り組み直してみる=素材化》の作業でこそ、自分の社会参加を作り直そうとしています*1。 永瀬さんの作品(参照)には同じ趣旨の雰囲気を感じていて*2、機会があればぜひ接してみたいです。 今回は栃木県とのことで、神戸に住む私には遠すぎますが、フェティシズムとは別の需要や活動があり得るという、大きな励みになっています。 永瀬氏のブログより: 批判的に読

    永瀬恭一個展「ノートの終わり・ノートの始まり」 - Freezing Point
    ishikawa-kz
    ishikawa-kz 2009/10/19
    「しかし、そんな根本的な過ちを犯すことで得られるインスピレーションがある。私に、あるいは製作に必要なのは反論されないただしさではない。生産的なミステイク」作品も人間も過渡的な流れの中のものだなと感じる
  • Takiguchi Archive | Introduction

  • 瀧口修造 - Wikipedia

    瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。 経歴[編集] 出生[編集] 1903年、富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現:富山市)大塚に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であり、長男の修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように人は子供の頃から大の学校嫌いで、よく家の大黒柱につかまっていたという。小学5年生のある日、父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。その帰りの堂で、父に医者にはなりたくない、と言うと父は黙って微笑んでいた。その数日後、父は急死した。 1921年、富山県立富

    瀧口修造 - Wikipedia
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